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メモ日記トゥディ「連綿たる血の流れ」 10.5.9

「母の日」にちなんで、先祖や子孫について考えよう。

沖縄では、初夏の頃に清明祭(シーミー)というものがあって、先祖の墓参りをするが、先祖とは言っても、知っているのは自分の両親やその両親くらいまでなのが普通だろう。
しかし、実は、すべての先祖は我々の体の中にいるのである。それこそ、ネアンデルタール人の頃から、いや、人類が人類になる以前の原生動物の頃からのすべての先祖の遺伝子を我々は自分の体内に持っている。
そう考えると、自分という存在は、なかなか大変な存在であり、それを自分の一存で無駄に処分してはマズイだろうな、という気になるのではないか。いや、もちろん、私は自殺肯定論者だから、自分がそう思えば自分の体を勝手に処理してもいいのだが、その前に、自分の体内にあるすべての祖先を、自分と共に滅ぼすのだ、という重みを少し考えてはどうか、ということだ。
ついでに言えば、独身の人間ならば、それと同時に、自分から生じる未来の子孫たちの可能性もすべて滅ぼすわけである。

「利己的遺伝子」という考えが私は大嫌いなのだが、その理由は、まず遺伝子の擬人化がナンセンスであることだ。遺伝子そのものには意志など無いのだから、それが「利己的」で、人間の体を乗り物として次から次へと乗り換えていく、という捉え方がくだらないと思う。また、そう見ることで、「自然は人間のモラルを超えた存在で、人間界のモラルなど小さいものだ、そして物事をそう見ることができる自分はその自然をも超えた存在なのだ」とアピールする科学者の自我肥大が気に入らない。竹内某など、自分の創見でもないこのドーキンスの考えを振り回して、ひところやたらに擬似科学本を出していたが、最近はすっかり鳴かず飛ばずで、幸いだ。
我々は利己的遺伝子の「乗り物」などではない。あらゆる先祖の集合体なのである。もしかしたら、先祖のすべての記憶さえ、我々の中には眠っているかもしれない。
祖先崇拝というと、何か古臭いもののように思われるが、実は祖先も子孫も我々自身と重なっているのである。そう思えば、清明祭という行事の意義も違って思われるのではないだろうか。

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