どぎつい言葉で言えば、我々は社会思想に関して頭が白紙の十代の時に、学校教科書による「思想的強姦」で精神的・知的処女性を失い、思想ヤクザ(資本主義世界支配層)の情婦(宣教師)や精神的奴隷になるのである。政治家の大半だって同様である。
難しい文章や長い文章を読むのが嫌いな人(私も本当は同じだ)のために、完全に要点だけを先に転載する。
資本主義経済も「社会主義」経済も、最初の出発点のピュアな姿を修正して、資本主義経済は計画や国家の介入・規制をかなり受け入れるようになり、「社会主義」経済も国家が全て決定・計画・調整するようなやり方を見直し、市場経済や利潤追求原理を導入するようになっている。
つまり、世界の経済は、両者のミックス——「混合経済」や「社会主義市場経済」へ向かっているというのがトレンドだということである。
(以下引用)小難しい表現や内容は読み飛ばして全体の大意を把握すればいい。
経済体制は、二つに大別される。一つは、生産者も消費者も自由意志で行動し、結果として社会全体の資源配分の調整を市場に委ねる市場経済である。これは、資本主義経済とも呼ばれる。
もう一つは、政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済であり、社会主義経済がそれに相当する。
現在では、世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている。
ここには市場経済=資本主義、計画経済=社会主義という構図が提示されている。
テスト問題も見せてもらったが、「社会全体の資源配分の調整を市場に委ねる市場経済である。これは( )経済とも呼ばれる」「政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済であり、( )がそれに相当する」「世界の多くの国で( )の経済体制がとられている」という穴埋め問題になっていて、高校生たちはこのような問題を教え込まれ、解かされるのである。「ちがーう!」と思いながらそれを読む。
他にも社会主義についてさまざまな記述があるのだが、多くの若い人の意識はここから出発している。
まず、単純に、完全な市場経済に全てを委ねている資本主義経済というものは存在しないし、後で少し述べるように資本主義を「G-G'というもうけの生産と最大化を目的とし、それを社会原理において最優先している経済」だと定義しても、そのような純粋な資本主義経済というものは存在しない。
同時に、「政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済」という純粋に一元的な計画経済をやっている「社会主義」経済も存在しない。*3
資本主義経済も「社会主義」経済も、最初の出発点のピュアな姿を修正して、資本主義経済は計画や国家の介入・規制をかなり受け入れるようになり、「社会主義」経済も国家が全て決定・計画・調整するようなやり方を見直し、市場経済や利潤追求原理を導入するようになっている。
つまり、世界の経済は、両者のミックス——「混合経済」や「社会主義市場経済」へ向かっているというのがトレンドだということである。
このことは「政治・経済」の教科書でも一定読み取れる。
しかし、こうした歴史の現実を総括したとき、教科書は「世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている」(p.85)「社会主義経済の…崩壊」(p.88)としてまとめられてしまう。ピュアな市場経済・資本主義経済というものも修正をせまられ、存在しなくなったにもかかわらず、教科書はそのことには口をつぐんでいる。
他方で、中国を「社会主義経済」としながら、それは資本主義に屈服して変容したかのようにだけ描かれている。
教科書自身が最初に「資本主義経済=市場経済」「社会主義経済=計画経済」と定義したはずである。その定義に忠実に歴史と現実を再定義するなら、いずれも修正を迫られて、「市場・利潤追求」と「計画・規制」のミックスに収斂したことを認めるべきではないだろうか。それを「世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている」などと概括することは、自ら立てたロジックを裏切る、きわめてイデオロギッシュな誘導であるように思う。
これが歴史の大きなトレンドであることを、高校の教科書を使って後づけることさえできるのである。また、そういうことを以前もぼくは書いた。
高校生が学んでいる教科書は実際に何を教えているのかから出発して、そこから伝えることを考える、というのがまずあってもいいんじゃないだろうか。
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