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徽宗皇帝のブログ

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廃仏毀釈と天皇
記事の末尾のみの転載。(gendai何とかというウェブマガジンの記事だ。)
明治の廃仏毀釈が、明治政府の「神道による国家統一」を目的として生じたもののひとつで、「天皇を中心とする国家」作りの一端ではあっても、それが天皇や皇室の意に反して行われたものであったという趣旨の記事と見ていいかと思う。おそらく、それは事実だろう。
天皇や皇室は、仏教伝来以来、明治に至るまでは神道よりも仏教への帰依が深かったことは歴史的事実である。それが突然、仏教を完全に否定する行為に出ることはありえない話だろう。
つまり、明治政府によって政治的神輿に担がれたのが天皇という存在であることを天皇自ら知っていたから、こうした仏教迫害に対し、天皇や皇室は批判的な言動に出ることができなかったのだと思う。
もちろん、私は日本の歴史における(特に文化的面から)天皇や皇室の意義を評価する者であるから、明治維新において天皇が政治的神輿でしかなかったという表現には何の悪意もこめていない。ただ、事実を述べているだけだ。
維新の志士たちが天皇を「玉(ぎょく)」と呼び、倒幕のためのただの道具としてしか見ていなかったことは、明治維新を概観する上で一番大事なことだ。その「玉」という言葉には何の尊敬の気持ちも籠められていない。(宝石としての玉ではなく、王将、玉将の「玉」のイメージだろう。)明治政府による天皇の神格化も、ただの道具としての天皇利用なのである。それが日本を後に破滅的な戦争に突き進める一因ともなったわけだ。ただし、それは後知恵にすぎない。日清日露戦争までは、天皇の神格化が軍事的な力にもなっていたのだから。
現代において天皇は単なる象徴であり、政治権力を持たない。しかし、神社本庁などが政治的な活動をし、それがたとえば天皇を利用しようという動きにでもなるなら、下の記事に書かれたことは、彼らを牽制するという意義を持つことになるだろう。



(以下引用)






美術・建築 テロ 国家・民族 日本

天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録

明治維新150年の光と影(2)
 真鍋 厚

明治天皇の知られざる後悔

そして忘れてはならないのは、この暴挙が宮中にも及んだことだ。


歴代の天皇(用明天皇の時代以後)は熱心な仏教徒で、江戸時代までは即位礼を含む主な宮中行事はすべて仏式だった。皇室と仏教は1400年以上にわたって密接な関係を育んできたのである。


京都東山の泉涌寺の霊明殿には、天智天皇・光仁天皇以後の歴代天皇皇后の位牌が置かれている。だが、これらの事実を明治政府は徹底的に無視した。


明治天皇はこんな重い言葉を残している。


明治天皇が崩御されるとき、「朕が一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元師の法によって出来なかったことである」と仰せられたということは、天皇の御心情として察するに余りあるものがあります。(『松島善海師談』)(*5)


つまり、「廃仏毀釈」運動に象徴される神道の国教化政策とは、あえて乱暴な言い方をすれば、天皇から国民の一人ひとりに至るまでの事実上の強制改宗であったのだ。

 

しかも、最高神である天照大神を頂く神道に奉ずることを絶対化することによって、それ以外のものを「国法に背くもの」「価値のないもの」として排斥するという、多神教的な日本の風土にそぐわない一元的な「排除」の思想に先鋭化したのである。この自らの意に反して信仰生活との紐帯が破壊される衝撃は、天皇も国民も同様であったと思われる。


結局のところ、前回取り上げたキリスト教排斥の動きともリンクする、明治政府の極端な臣民化政策は、日本を数百万人もの犠牲をもたらす敗戦にまで追い込む熱狂の遠因となった。


この過ちから謙虚に学ぶ姿勢こそ、未来に残すべき「明治維新の遺産」ではないだろうか。

10月25日発売の拙著『不寛容という不安』(彩流社)では、本シリーズで取り上げた近現代史の検討などを通じて、「不安」が他者への暴力を惹起する背景や、「分断」と「孤立」に向う社会に対する処方箋を模索している。ご一読頂きたい。

〈参考文献〉


(*1)圭室文雄『神仏分離』教育社歴史新書


(*2)安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書


(*3)大橋一章『奈良大和路』保育社


(*4)利井興隆『祖国を憶ひて』一味出版


(*5)佐伯恵達『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち【改訂版】』鉱脈社


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