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戦争は希望になりうるか

谷間の百合さんのブログの後半部分だが、私もたまたま「希望は戦争」という言葉について考えていたところだったので、シンクロニシティに少し驚いた。ただし、私は赤木氏の論文が出た時から今まで一貫して、「希望は戦争」ということを皮肉で無しに言うことには反対である。赤木氏の論文はもちろん、皮肉の意味で言ったのだと思う(私も読んだのだが、内容はあまり覚えていない。確か、就職超氷河期の世代にとって、30代40代になってからの社会的上昇は困難で、戦争によって社会の階層に流動性が起こらないと、彼らに希望は無い、という趣旨だったように思う。とすれば、皮肉でも何でもなしに、本気で戦争を望んでいる、ということになりそうだ。それ以前に、丸山真男を尊敬している私は、その論文の副題である「丸山真男を殴りたい」に腹を立てていたので、あまり身を入れて読まなかったようにも思う。)し、谷間の百合さんもむしろ「希望は戦争」となるような事態が出来することを深く懸念しているのは明白だ。

で、少し論じたかったのは、はたして「戦争は希望になりうるか」ということである。つまり、戦争によって、このがちがちに固まった社会構造が壊れて、下層国民が下層から脱出することがあるのだろうか、ということだ。いや、もちろんあるに決まっているが、それは戦争のもたらす災厄に見合うほどの変動だろうか、ということである。たとえば、戦争で300万人が死に、1000万人が家財を失うとして、その代償に、数十万人の社会的地位が上昇するとすれば、この戦争は経済的に言って(あるいは、妙な言い方だが、社会攪拌政策として)有益だったとなるのだろうか。
もちろん、そんなことはありえない。300万人どころかたった一人しか死ななかったとしても、それがたまたまあなただったとしたら、その死の代償に国家が繁栄しようが意味はないだろう。それが庶民にとっての戦争の意味(まったくの不条理ということ)だ。
実際には、戦争は「戦争に行かない人間」にとってのみ希望であり、有益な事業機会になるだけだ。一般庶民は戦争によって必ずなんらかの被害を受けるのである。

まあ、「希望は戦争」というのはおそらく、「保育園落ちた、日本死ね」と同じような、人目を惹くキャッチコピーにすぎないので、大真面目に論じるのも馬鹿げてはいるだろうが、一度大真面目に論じておきたかったのだ。


(以下引用)



吉本隆明は、日米開戦になったときは「ものすごい解放感でしたね」と言っていたそうですが、いま、そういう状況に近づいているのを感じませんか。
「スカッとしたい」という欲求です。
自殺願望と同じで、人間には、破滅願望(カタストロフィ)があるようです。
一瞬でもスカッとしたい、そのとき酔えれば後はどうでもいいという気分です。
赤木智弘さんの「希望は戦争」が、実現することなんかあり得ないと思っていたのに、気が付けば目の前にありました。

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