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徽宗皇帝のブログ

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闘争が起こると論理的言論は耳に入らない
「in deep」過去記事より転載。文中の「シナ」は国名ではなく人名だが、ネトウヨが常に中国を「シナ」と呼ぶのを連想させて面白い。西洋全体としては、常に「ロシア」が敵国になってきた、というのと重なる。
埴谷雄高が、政治の論理は畢竟すると「あいつは敵だ。あいつを殺せ」になる、と言っていた記憶があるが、下の記事に書かれた「煽動の手法」は人間性の弱点をよく見抜いた、単純で狡猾なものだと思う。つまり、「敵」認定した瞬間に、相手の言葉はまったく耳に入らず、どのような理性的判断も不可能になる、という弱点である。(言葉を換えれば、感情に支配された時には理性は消える、ということだ。)これは、ある種、原始的本能だろう。

(以下引用)


以前……日付けを見ますと、すでに 7年前の記事ですが、



殺され続ける詩人シナ
In Deep 2012年09月12日



というものの中で、「人が扇動される仕組み」について、作家の山本七平さんの著作『ある異常体験者の偏見』(1973年)から抜粋させていただいたことがあります。



下のようなものでした。



ちょっと長いかもしれないですが、削除できる部分が見当たりませんので、当時の記事に抜粋した部分をそのまま載せさせていただきます。


山本七平『ある異常体験者の偏見』より

原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。


これがいわば基本的な原則である。ということは、まず集団ヒステリーを起こす必要があるわけで、従ってこのヒステリーを自由自在に起こさせる方法が、その方法論である。


この方法論はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』に実に明確に示されているので、私が説明するよりもそれを読んでいただいた方が的確なわけだが、……実は、私は戦争中でなく、戦後にフィリピンの「戦犯容疑者収容所」で、『シーザー』の筋書き通りのことが起きるのを見、つくづく天才とは偉大なもので、短い台詞によくもこれだけのことを書きえたものだと感嘆し、ここではじめて扇動なるものの実体を見、それを逆に軍隊経験にあてはめて、「あれも本質的には扇動だったのだな」と感じたのがこれを知る機縁となったわけだから、まずそのときのことを記して、命令同様の効果のもつ扇動=軍人的断言法の話法に進みたい。


まず何よりも私を驚かしたのは『シーザー』に出てくる、扇動された者の次の言葉である。


市民の一人 名前は? 正直に言え!
シナ    シナだ。本名だ。
市民の一人 ブチ殺せ、八つ裂きにしろ、こいつはあの一味、徒党の一人だぞ。
シナ    私は詩人のシナだ、別人だ。
市民の一人 ヘボ詩人か、やっちまえ、ヘボ詩人を八つ裂きにしろ。
シナ    ちがう。私はあの徒党のシナじゃない。
市民の一人 どうだっていい、名前がシナだ・・・やっちまえ、やっちまえ・・・


こんなことは芝居の世界でしか起こらないと人は思うかも知れない。……しかし、「お前は日本の軍人だな、ヤマモト! ケンペイのヤマモトだな、やっちまえ、ぶら下げろ!」、「ちがいます、私は砲兵のヤマモトです! 憲兵ではありません」、「憲兵も砲兵もあるもんか、お前はあのヤマモトだ、やっちまえ、絞首台にぶら下げろ」といったようなことが、現実に私の目の前で起こったのである。


これについては後で後述するが、これがあまりに『シーザー』のこの描写に似ているので私は『シーザー』を思い出したわけである。


新聞を見ると、形は変わっても、今でも全く同じ型のことが行われているように私は思う。


一体、どうやるとこういう現象が起こせるのか。扇動というと人は「ヤッチマエー」、「ヤッツケロー」、「タタキノメセー」という言葉、すなわち今の台詞のような言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは、「扇動された者の叫び」であって、「扇動する側の理論」ではない。


すなわち、結果であって原因ではないのである。ここまでくれば、もう先導者の任務は終わったわけで、そこでアントニーのように「……動き出したな、……あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。というのは、扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもりだから、「扇動されたな」という危惧を群衆が少しでも抱けば、その熱気が一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。(中略)


従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。


扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。



ここまでです。



最後のほうの下りである、



> 扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもり



> 扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからない



> 扇動の実体は、実に静なる理論なのである。



こういうことが……これは、あくまで私個人の考えですが……こういうことが、今の世界で大規模に起きているのだと思われます。



しかも、もうずーっと。



私は以前、以下の記事で、ホラー小説『エクソシスト』に出てくる悪魔と、コロンブスを比較した文章を書きました。





コロンブスたちが先住民族に行った行為は、控え目に表現しても鬼畜的で悪魔的であり、人間性の心の欠片もない「残酷な機械が行うことみたいなもの」でした。



 (中略)



そして、今の世界では、多くの「人間」が「人間に失望」しています。



悪魔の取り組みの成功例と言えるのでしょうね。



 



現代においては、山本七平さんが述べているように、「扇動者は見えない」ですが、人間は日々、何らかの方法で扇動されている。



その中で、人間はどんどん他者に対して残酷な存在となり、今の社会はそのような上に成立している。



それが急速に良くなるというような方向もあまり見えないです。

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