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業家の兄弟

第五章 宙に浮いた50円

 明治時代のことであるから、物証などはほとんど当てにならず、犯人らしい人物の見当をつけて逮捕し、後は拷問によって自白させるというのが一般的な事件の解決法であったが、この場合は、犯人らしい人物が紳士階級であったから、さすがに拷問はできず、状況証拠のみによって乱の犯行を立証する方針が取られた。
 取りあえず、凶行の手段は撲殺であり、その道具は応接間の青銅製の花瓶であろうということになったが、乱は、自分は手で父親を殴っただけであり、断じて花瓶などで殴ってはいないと言い張った。死体の傍には血のついた花瓶が転がっており、彼の言葉は言い逃れだろうと思われたが、しかし、それが嘘だという証拠も無く、検事は困惑した。一番の証拠と思われたのは、乱が所持していた150円の金で、そのうち5円を宿屋の支払いとし、温泉宿で20円程度の散財をしていたが、なおも120円少々が残っていた。その前日までは宿屋の支払いもできない文無し状態だったのだから、これこそが父親の屋敷から彼が金を強奪したれっきとした証拠であろうと思われた。しかも、事件の前日に濫三郎の工場の差配人が、商品の売上として200円を濫三郎に渡し、それを金庫に入れたことが確認されていた。だが、それだと後50円ほどが行方不明であり、乱は、金など取っていないと言い張っていた。では、その150円はどうして手に入れたかという質問には、彼はただ口をつぐんでいるだけだった。問い詰めると、親切な知人から貰ったと答えたが、その知人は誰かと聞いても、答えない。それを答えるくらいなら、投獄され、有罪判決を受けたほうがましだと言うのである。
 こんな些細な事柄がどうして問題になるのだ、彼が犯人なのは間違い無いのだから、さっさと裁判し、処刑しろ、という声も司法局内部では多かった。そこで、いよいよ裁判が行われることになったのだが、その前日に獄中の乱を二人の人間が訪れた。だが、その話の前の出来事を書いておこう。

 乱が逮捕された時の兄弟たちの反応はそれぞれに異なった。憐は大きなショックを受け、茫然自失の体だったが、論はまったく反応せず、冷淡な顔をしていた。「まあ、あいつなら親父を殴り殺しかねない」といった表情である。憐が、兄の嫌疑を晴らすために、事情を知っているらしい黒卯紫苑に会いに行く、と言った時も、「やめておけ」と言った。
「そんなのは警察の仕事だ。お前がいくら動いても何にもならんよ」
「でも、乱兄さんをこのままにしていてもいいんですか?」
「どうしようも無いだろう。それに、なぜ助ける必要がある?」
「だって、兄弟ですよ」
「兄弟が他人とどう違うのか、俺にはわからんね。親父に関して言えば、他人よりもっと嫌いなくらいだ。乱があいつを殺したのなら、感謝はするが、だからと言って乱を助けようとは思わないね。お前も、馬鹿なことはやめるんだ。毒虫が毒虫を殺した、それだけさ」
「兄さんが毒虫だと言うんですか?」
「毒虫ではないが、昆虫並の人間さ。目の前の欲望だけで動く、そんな人間を人間と言う名で呼ぼうとは思わないね」
「乱兄さんが嫌いなんですか?」
「嫌いだね。お前はあいつとほとんど縁が無かったから、あいつに兄弟らしい愛情を持っているんだろうが、俺はあいつの尻拭いを何度もさせられたからね。あいつの放蕩は親父譲りだよ。淫蕩、好色、無責任、ほら吹き、俺の嫌いな欠点をあいつはみんな持っている。あいつを好きになれる人間はあいつを知らない人間だけさ」
「でも、僕たちは兄弟です」
「ああ、残念ながらね。兄弟は助け合うものだと決まっているらしい。もっとも、世間にそんな兄弟がどれだけいるか知りたいもんだね。親の遺産相続ともなれば、互いに食い合い、殺しあうような兄弟は無数にいるようだがね」
「僕は、無力ですが、乱兄さんを救うために働いてみます。仮に、乱兄さんがお父さんを殺したとしても、きっと罪を軽くするくらいはできるでしょう」
「まあ、やってみるがいいさ。どうせ止めたって無駄だろうからね」

 憐が出て行った後、論は物思いに沈み込んでいたが、やがて身支度をして、これも屋敷を出た。
 雪の降り続く中を、彼は考えに耽りながら歩いた。
 やがて彼が着いたのは、警察の留置所だった。逮捕以来、乱はずっとここに留置されているのである。面会の許可を貰って、彼は鉄格子の前に椅子を下して座った。
「おや、お前か」
「ええ、僕です。兄さん」
「お前が来てくれるとは思わなかったよ」
「そうですね。手短かに話しましょう。兄さんは、親父を殺したのですか?」
「いや、違う。親父を殴ったのは確かだが、親父が死んだのは、青銅の花瓶で頭を潰されたからだという話だ。俺は、そんな事はしていない」
「でも、あの日、外部からの来客は兄さんだけですよ。それに、僕も憐も、あの日は一日中外出していました」
「使用人はどうだ?」
「殺す理由がありません」
「親父のことだから、使用人に怨みを買っていたということもあるだろう」
「それはありえますね。でも、例の200円の金はどうなんですか? 兄さんが取ったんでしょう?」
「……お前だけに言おう。だが、これは誰にも話すなよ。確かに、俺が取った」
「では、50円はどうなったんです?」
「ああ、そこなんだよ。俺は、この事を世間の人間に知られるくらいなら、死んだほうがいい。いっそ死刑にされた方がいいくらいだ」
「……」
「俺は、親父を殴って、机の中から金庫の鍵を取り、金庫を開けた。そこには封筒に入った200円の金があった。200円では、例のあの女に言われた金には足りないが、無いよりはましだと思って、俺はその200円を取った。だが、そこで考えたんだ。これをあの女の所に持っていけば、そっくりあの女の物になる。何しろ、金遣いの荒い女だと言うから、これをすっかり使ってしまうだろう。そこで、俺は、そのうち50円だけを家の玄関脇の壁の穴に隠したんだ。この俺が、そんなみみっちい事をしてしまったんだ」
「それがどうして恥ずかしいんです?」
「俺は、金が無いことは恥ずかしくはない。あってもそれを使わないという事が恥ずかしいんだ。つまらない理由で女に嘘をついて、みみっちくも50円を隠した、その自分のふるまいが許せない。何と言えばいいのか、よくわからないが、気品、だろうか。たとえ汚辱の中にいても、この心の支えがある限りは、俺は胸を張って生きていける。だが、俺は自分で自分を裏切ったんだ。俺は、自分を鷲だと思っていたのに、イタチか鼠のようなことをしてしまった、そんな自分が許せない」
「それが兄さんのレゾン・デートル(生きる根拠)なら、何とも言えませんが、僕から見れば、つまらないプライドだし、甘えのように思えますね」
「お前にはそうだろうよ」
「では、兄さんは、親父を殺していない、それは確かなんですね?」
「ああ」
「わかりました」
論は立ち上がって別れを告げようとしたが、その時、乱が目を上げて、彼を見た。
「なあ、『餓鬼』って何だ?」
「餓鬼? 子供のことでしょう」
「そうだよなあ。変な夢を見たんだ。真っ暗な荒野で、無数の人間の泣き声が聞こえるんだよ。俺が、傍を見ると、汚い百姓の爺がいるから、『あの声は何だ』と聞くと、『餓鬼でさあ。餓鬼どもが飢えて泣いているんでさあ』と悲しげな声で言うんだ。その『餓鬼』という言葉が、夢から覚めても、何だか心に残ってなあ」
 論は、黙ったまま、兄に目礼してそこを立ち去った。


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