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業家の兄弟


第六章 私生児

 憐と黒卯紫苑の対面は、兄の罪を晴らすためには何も実りは無かったが、憐は彼女に強い印象を受けた。まるで泥濘の中から咲き出た蓮の花のような清らかさ、苦難に耐えてきた強さ、悲しみを彼は彼女の顔から感じ取ったのである。
 彼女は通常はむしろ蓮っ葉なくらいに明るく、コケティッシュに振る舞う女だったから、彼女からそんな印象を受けたというのは不思議なことだったが、憐という男はぼんやり者のくせに、妙に鋭いところもあったから、彼だけにはそう見えたのかもしれない。
「お茶はいかが?」
「ええ、頂きます」
「大変なことになってしまったわね」
「ええ」
「私のせいだって思っていらっしゃる?」
「え? まさか、そんな事は」
「いいのよ。町の人はみんな噂しているわ。親と子が一人の女を奪い合って、殺し合いになってしまった。悪いのはあの女だって」
 洋風の室内の中央には、小さなストーブがあり、その上に、日本ではまだ珍しいサモワールが載っていて、湯気を立てていた。女は、サモワールからお茶を注いで憐に渡した。窓ガラスの外側にはびっしりと氷が張り付いていて寒げだが、室内は暖かい。
「本当のところ、あなたのお父様と私は、もうほとんど関係は無かったのよ。私をこんな女にしたのはあなたのお父様。でも、他の生き方が今より幸せだったかどうかなんてわからないわ。今でも、幸せってわけでもないけど。よその人から見れば、私などいないほうがいいと思われているでしょうね。平和な家庭を破滅させる、悪女だ、売女だって」
 女はとりとめもなく語り続けた。憐はほとんど黙って聞くだけである。
「あなたのお兄様に、300円を調達してほしいと言ったのは本当よ。でも、それはどうでもいい事だったの。私にとって、男は、お金を持ってきてくれる人か、そうでないかの2種類だけ。お金の無い男は、私には縁の無い人だわ。お兄様に300円と言ったのは、試してみただけよ。そのお金をどんな方法で手に入れるかも関係ない。それくらいのお金が手に入れられないなら、相手にはしないつもりだったわ。でも、あの人は、150円のお金を手に入れた。300円ではなかったけど、私のために働いてくれたの。だから、ご褒美に、一緒に遊んであげたの。その翌日にはあの人は逮捕され、それが私のせい、ということになったってわけ」
「兄さんが父を殺したと思いますか」
「さあ、どうかしら。まだ出会ってからニ、三度しかつきあっていないけど、かっとなって殺すことはあるかもしれないわね。でも、計画的に人を殺せるような性格ではないと思うわ」
「僕もそう思います。有難うございました。これで失礼します」
「ああ、ちょっと待って」
 憐は椅子に座りなおした。
「あなた、神様を信じていらっしゃるんですってね」
「……ええ」
「神様は、私のような悪い女でも許してくださるかしら?」
「マタイ伝に『取税人と遊女とは汝らに先立ちて神の国に入るなり。それヨハネ義の道をもて来りしに汝らは信ぜず、取税人と遊女とは信じたり。然るに汝らは之を見し後もなほ悔い改めずして信ぜざりき』とあります。あなたが遊女というのではありませんが、この世の善悪よりも、大切なのは、神に対する善悪だと思います」
「では、何が神の前の善悪なのかしら」
「自分の心に聞いて、恥ずかしくない行動をすることでしょうけど、もっとも大切なことは、神を愛し、神さまが人間を愛するように他人を愛することだと思います」
「神様が、目の前にいれば、愛することもできるでしょうけどね」
「目に見えないものはたくさんあるはずですよ」
「そうね。自分のちっぽけな心で大きなものの存在をどうこう言うこと自体がおかしいんでしょうね。あなたのお兄さんによろしく。御免なさいと言っておいて」

 警察から帰った論を待ち受けていたのは、下男の竜吉だった。この男は町の白痴の女タキが産んだ私生児で、その父親は濫三郎だと言われていた。濫三郎はそれを否定していたが、タキが死んだ後、その孤児を引き取って育てたので、やはりその父親だというのが定説になった。だが、濫三郎は彼をあくまで下男として扱い、自分の子供のようには育てなかった。もっとも、子供に対する無関心は、他の三人に対しても同じではあったが。
「論さま」
 階段を上りかけてそう声をかけられ、論は足を止めた。その顔には不快感が浮かんだが、彼はこの若者が嫌いだったのである。彼とこの若者は同じ歳で、彼が中学に上がる前にはこの竜吉とわりと仲が良かった。竜吉は、頭は悪くはなかったからである。だが、その考えのいやしい所、卑屈なところ、自分の頭の良さに対する己惚れが鼻につき始め、成長してからは滅多に話すことはなくなった。だが、相手の方では、捨てられた犬が主人の愛顧を求めるような表情で、いつも彼の後を目で追っていた。その視線が鬱陶しく、ますます論は竜吉が嫌いになって行った。
「何だ」
「お話があります」
「ここでは言えない話か?」
「ええ」
「なら、僕の部屋に来い」
 論は階段を上がり、その後ろから竜吉が付いて来た。
 部屋に入ると、論は振り向いて、竜吉に冷たい目を向けた。
「何の話だ」
「実は、そのう、へへへ、褒美を貰いたいんで」
「褒美? 何のことだ」
「わかってらっしゃるでしょう。濫三郎様の件ですよ」
「親父の件? 何を言っている」
「あなたのお望み通りになったじゃありませんか。あなたは、お父様を殺したいと思っていらっしゃったでしょう?」
「何、じゃあ、親父をやったのはお前か」
「いいえ、あなたですよ」
「何を言っているんだ、お前は」
「私は手を下しただけ。本当の犯人は、あなたです。私は、濫三郎様を殺したいという気持ちは、まったくありませんでしたからね。あなたの為にやったんです」
「馬鹿な! 俺が親父を殺したいなど……」
「嘘はいけません。子供の頃、何度も言っていましたよ。それに、あなたはおっしゃっていた。この世には、生きる価値の無い人間が無数にいる。そんな人間を殺しても罪にはならないと」
「こ……、この悪党め! お前を警察に突き出してやる!」
「いいんですか? 私はあなたから命ぜられてやったと言いますよ。だって、乱様が犯人となれば、この家の財産は次男のあなたが引き継ぐことになります。だから、あなたが殺せと言ったんだと。いいじゃありませんか。あなたは乱様もお父上もお嫌いだったじゃありませんか。邪魔な二人が一辺に片付いたんですから」
「俺は……、俺は……」
「ねえ、覚えていますか。まだ子供のころ、私たちはよく一緒に話したじゃありませんか。今でも、よく覚えていますよ。あなたはおっしゃった。この世に神様などいないと。そして、神がいなければすべては許されるんだと」
「違う! すべてが許されるはずはない」
「おや、あなたはもっと頭が良いお方だったはずですよ。自分の論理を自分で否定なさるんですか? それこそ、あなたが最も嫌った、自己矛盾でしょう」
「論理……、論理か! 論理などクソ喰らえだ! 俺は、お前を警察に突き出してやる!」
「あなたには、できませんよ。黙っていれば、この家の財産は、すべてあなたの物ですからね。ねえ、私は、あなたを尊敬しているんですよ。この世であなたほど賢い人はいないと。昔のように仲良くしようじゃありませんか。私は、あなたの言うことなら、何でもしますよ」
「……そうか。じゃあ、今すぐ、首をくくって死ね」
 竜吉は、しばらく黙って論の顔をじっと見ていた。その目にある憐れみのような色が、論には不快だった。
「……いいですよ。どうせ、白痴の浮浪者女の生んだ息子として見下げられて生きていく人生に、未練などありません。でも、私だって業家の兄弟なんです。それが、なぜあなた達は主人面して、私は下男なんですか? 私とあなた達に何の違いがあるんですか。ただ、生んだ母親が違うというだけで、あなた達は一生、紳士として扱われ、私は卑しい下男として扱われるんです。褒美? そんな物は欲しくもない。ただ、私はあなたに人並みに扱って貰いたかっただけだ。私の精神を決めたのは、幼い頃の、あなたのいろいろな言葉です。あの頃のあなたは素晴らしかった。今のあなたは、馬鹿みたいですよ!」
 論は無言で背を向けた。やがて竜吉が部屋から出て行き、ドアの閉まる音がした。

 それから1時間後、竜吉の部屋で、天井の梁からぶら下がっている竜吉を、下女の一人が見つけ、悲鳴を上げた。

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