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徽宗皇帝のブログ

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業家の兄弟

第七章 論は乱れ、乱は論ずる

 警察の留置所にいる乱を訪れた二人目の客は憐だった。彼は鉄格子の前に座った後、しばらくは何も言わなかった。
「どうした、憐。何か話でもあるのか?」
「すみません。兄さんを助けようにも、何の手がかりも無くて」
「いいさ。俺は、親父を殴った時、あいつを殺そうとして殴ったんだ。だから、俺は結局親父を殺した犯人だと言ってもいい。その罪は男らしく引き受けるさ。俺の後で、ほかの誰かが親父を殺そうが、どうでもいい」
 乱は、微笑さえ浮かべていた。ここ数日で、すっかり不精髭が伸びてやつれていたが、その目には何か、以前には無かった精神的な光のようなものがあった。
「なあ、キリストは何で、人間の罪を引き受けたんだい? だって、彼は何一つ、罪は無かったんだろう?」
「それが多分、キリストがこの世に生まれた目的だったからでしょう」
「神様に命ぜられたからかい? いったい、神様はどうしてそんな酷い命令をしたんだろう。だって、キリストは神の子なんだろう?」
「アブラハムも、自分の子を神に捧げようとしました」
「それも、俺にはわからない事の一つだ。だって、その子供は、自分が何のために殺されるのかもわからないんだぜ。アブラハムも、なぜ自分の子供を守ろうとしなかったんだ。親のためなら、子供は犠牲にしてもいいってのかい。キリストなら、自分の使命を理解していて、覚悟もあったんだろうが、いきなり生贄として殺される子供にとっては、とんでもない恐怖だろうよ」
「神様の考えを、人間の論理で判断はできないと思います」
「前に、論の奴が言っていたな。キリスト教というのは、奴隷の宗教だと。我々人間は、神の奴隷なんだとさ」
「奴隷ではありません。人間が神を愛し、他人を愛するならば、神様はこの世のことに何一つ口出しはしないんですから。神は、地上を人間に任せたんです」
「なら、すべては人間の責任かい。だって、神様が世界を作ったんだろう。ならば、悪の無い世界を作ればよかったじゃないか。それとも、神様の力にも限界があるのかい。神様が全知全能なら、どうして、もっと素晴らしい世界を作らなかったんだろう。……俺には、善の神と悪の神がいるというゾロアスター教の方が合理的に思えるね」
「論兄さんも同じようなことを言っていましたよ。いったい、この世に悪があるのは何故だって」
「そうだよな。この世に悪があるなら、それは神が十善ではない、という事にはならないかい?」
「神の考える善悪が、人間の考える善悪と同じだとは限りませんよ」
「ならば、俺たちはどう生きればいいんだい」
「それぞれが、自分の信じるところにしたがって生きるしかないでしょう」
「その結果、最後の審判で裁かれて地獄行きかい?」
「地獄なんてありませんよ」
「おや、お前は、正統派のクリスチャンじゃなかったのかい」
「いいえ。ただ、神とキリストを信じているだけです」
「ふむ。まあ、俺は聖書もろくに読んだこともない無学者だから何とも言えんが、キリストというのは、なかなか偉い奴だよな」
「彼がこの世に生まれたのは奇跡だと僕は思っています。そして、そういう奇跡があった以上、神は存在すると信じます」
「まあ、お前の母親も信心深い女だったみたいだから、これは遺伝的性格という奴かな。俺の母親は、気位の高い女だったようだが、俺もそうさ。俺はやくざな男だが、何かをやるとすれば、徹底的にやるんだ。もしも、今回の事件に何かの意味があるなら、それを見届けてやるさ。泣き言は言わない。俺は、運命なんて奴に頭を下げたりはしないんだ」
「兄さんは立派です」
「そうでもないさ。……昔、興味半分で、聖書を少し読んでみたが、まあ、悪くはないよ。旧約のほうは、ただのユダ公の御託だがな。キリストの話は気に入った。……俺はな、もしも流刑にでもなったら、そして刑期が終わったら、生まれ変わるつもりだ。この事件は、俺に考えさせるための、神の試練って奴かもしれないと思うんだ。神様がいるとすればだがな。ほら、聖書にあるだろう。『幸いある日には楽しめ。悩みの日には考えよ』って。俺は、これまで、人生を楽しむことしか考えていなかった。だが、そうしていながら、いつも何か面白くない気分があったんだ。そう、どこかに、救いを求めている『餓鬼』がいる。俺が、自分のことにかまけている間に、そいつらは泣いているんだ」
「『餓鬼』ですか?」
「そう、『餓鬼』だ。なあに、つまらん夢さ! だが、俺の夢にそいつが現れたってのは、何かの啓示じゃないかって思ったんだな」
 憐はその『餓鬼』が何かを聞かなかった。乱も強いて説明はせず、やがて憐は兄に別れを告げてそこを出たが、兄が気にかけている『餓鬼』のことが、その後長い間、心に残っていた。

 竜吉が自死したことを聞いた論は、その後ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。おそらく、心の中では、事件の真相を警察に告げに行かねばならないと考えていていたのだろうが、その一方で、「それが何になる?」とでも思うのか、顔に冷笑が浮かび、自分でそれに気づいてぎょっと驚いたような顔になったりした。
 彼が直接に手を下したのでは無い以上、彼には法的に咎められる要素は無い。だから、警察に行き、兄を窮地から救うのが彼の為すべきことだっただろう。だが、彼はじっと動かなかった。彼の頭の中はあれこれととりとめのない考えが渦巻くだけで、考えがまったくまとまらないのである。彼の頭は熱を帯び、唇には時々、意味不明の呟きが漏れた。
 やがて彼はベッドに倒れこみ、昏睡したような眠りに落ちて行った。
 窓の外には、雪が一晩中吹雪いていた。

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