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ランボーの詩

詩というものは、人生の伴侶である。美しい映画音楽が映画の効果を高めるように、愛唱する詩は生活の伴奏音楽となるのである。
しかし、学校で習う詩のくだらなさのために、世間の大半の人間は、詩を人生の薬味とする楽しみをしらない。
もちろん、忙しい生活を送る現代人が、四六時中、詩を心の中に抱くことはできない。
だが、ふとした瞬間に詩の一節を思い出すのは、生活の時間を美しく彩るのである。
ステンドグラスのはまった丸天井を抜けてくる光のように。

そうした詩の断片を幾つか書いていこう。まずはアルチュール・ランボーの詩から。


   「錯乱」より

見つかった! 
何が? 永遠だ。
太陽に溶けた
   海だ。    (高橋彦明訳)


もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
      海だ。  (堀口大學訳)


  「最高の塔の歌」

あらゆるものに縛られた
哀れ空しい青春よ、
気むずかしさが原因で
僕は一生をふいにした。

心と心が熱し合う
時世はついに来ぬものか!  (堀口大學訳)


すべてに縛られて
なすこともなく過ごした青春よ、
心がせんさいなばっかりに
おれは生活を失ってしまった。
ああ! 時よ来い、
すべての心の燃える時よ。  (高橋彦明訳)


 「幸福」

おお、歳月よ、あこがれよ、
誰か心に瑕のなき?      (堀口大學訳)

 
おお季節よ、おお城よ!
無疵な心なんてあるものか?  (高橋彦明訳)


*訳を二つずつ並べたが、その前の訳のほうが、好みの訳である。ある部分では高橋訳が好みだし、ある部分では堀口訳が好みだ。
 こうした断片的な詩句のカッコ良さでは、ランボーにかなう詩人はいない。もちろん、ボードレールにもジャック・プレヴェールにもいい詩句はいろいろある。
 まあ、いい年をした男がいまだにランボーを読んだりするわけではないが、書斎の本棚に眠る、過去の思い出を甦らすのも悪くはないだろう。






 

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