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徽宗皇帝のブログ

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「イスラエル系アラブ人(?)」という存在

「阿修羅」から転載。
非常に欺瞞と偏見、あるいは意図的洗脳操作を感じさせる文章だが、あまり知られていない情報、つまりイスラエルにいるアラブ系住民(記事ではイスラエル系アラブ人と言っているが、こちらの方が適切な言い方ではないだろうか。)という存在についての情報が垣間見られるので、備忘的に保存しておく。不穏当な比較かもしれないが、日本における在日外国人との類比もできそうである。


(以下引用)



www.danielpipes.org/10907/
イスラエル系アラブ人のパラドックス


ダニエル・パイプス
電子版ナショナル・レビュー
2012年03月23日
Translation of the original text: Israel's Arabs, Living a Paradox
日本語訳:綱島(三宅)郁子 


イスラエル人口の五分の一を占めるアラブ人達は、ユダヤ人国家の忠実な市民であり得るだろうか。


この問いを抱きながら、私は最近、幾つかのイスラエルのアラブ人居住地域(ジャッファ、バカ・アル・ガルビヤ、ウム・アル・ファーム、ハイファ、アッコ、ナザレ、ゴラン高原、エルサレム)を訪問し、アラブ系とユダヤ系の主流イスラエル人達と議論した。


ほとんどのアラビア語を話す市民が、ユダヤ的政体の中で暮らすことに関して、大変に葛藤していることがわかった。一方では、国の特権的な宗教としてのユダヤ教の地位、ユダヤ人のみ随意に移住が許される帰還法、国家の主要言語としてのヘブライ語、国旗のダビデの星、国歌にある「ユダヤの魂」への言及に憤っていた。他方、彼らは、国の経済的成功、健康管理の水準、法の支配、民主主義の機能を賞賛している。


これらの衝突は、多くの表現に見出される。1949年当時の、小さく、教育のない、敗者だったイスラエル系アラブ人口は、十倍に成長し、現代技術を獲得し、自信を回復した。この共同体の出身には、特権的で責任ある地位を獲得した人々もいる。その中には、最高裁判所の裁判官サリム・ジョウブラン、前大使アリ・ヤフヤ、政府の元大臣ラレブ・マジャデレ、ジャーナリストのハレッド・アブ・トアメーが含まれる。


しかし、これらの同化された少数は、土地の日、ナクバの日、そして、『未来の展望』報告と結びつく、不満やるかたない大衆に囲まれている。あからさまになったところでは、アハメド・ティビやハネエン・ツアビのような大半のイスラエル系アラブ人の国会議員達は、鼻持ちならぬ反シオニズムの短気者である。イスラエル系アラブ人達は、ますますユダヤ系の同じ国民達に対して暴力に訴えてきている。


実際、イスラエル系アラブ人達は、二つのパラドックスを生きている。イスラエル国内で差別に苦しむものの、彼らは、主権アラブ国(例えば、エジプトやシリア)に暮らしているアラブ大衆よりも、より多くの権利や遥かな安定を享受している。第二に、彼らは、仲間のアラブ人達が中傷し、全滅させると脅迫する国で市民権を有している。


イスラエルで交わした会話によって、私は次のような結論へと導かれた。これらの複雑さは、ユダヤ人によってもアラブ人によっても同様に、イスラエル系アラブ人が変則的に存在するという充分な含意についての、確固とした議論を妨げている、と。極端な国会議員達や暴力的な青年は、アラブ人口の逸脱した規格外だとして片付けられている。その代わりに、もし、イスラエル系アラブ人がより尊敬され、中央政府から市の補助をもっと受けてさえいたならば、現在の不満は和らぐであろうに、とも聞く。(善良な)イスラエルのアラブ人達と西岸やガザの(悪い)アラブ人を識別しなければならない、と。そして、イスラエルがイスラエル系アラブ人をよりよく遇しなければ、彼らはパレスチナ人達へと変質するであろうとも聞く。


私の対話者達は、一般に、イスラームに関する質問を一蹴した。(イスラエル系アラブ人口の84%を占める)ムスリム達が自らを支配するというイスラームの規範に言及することは、ほとんど無作法だと感じられている。イスラーム法の適用のための推進力を議論すれば、ぽかんとした表情になり、より身近な話題へと移ってしまう。


この回避は、2002年以前のトルコを思い出させた。主流のトルコ人達が、アタチュルクの革命が永続的なものであり、イスラーム主義者達は周辺的な現象であり続けるだろうと、当然のように決め込んでいた時のことである。彼らは、あまりにも誤っていると証明した。つまり、2002年末にイスラミスト達が民主的に権力を乗っ取ってから十年間で、選ばれた政府は、徐々に、よりイスラーム的な法律を施行し、ネオ・オスマン地域権力を構築したのである。


私は、イスラエル内での類似した展開を予想する。イスラエル系アラブ人のパラドックスが、より深刻になっているからである。イスラエルのムスリム市民達は、人数において、技術において、自信において、成長し続けるであろう。同時に、国の暮らしにもっと統合され、ユダヤ人主権国を混乱させたいと、より熱心になりながら。これは、イスラエルが外的脅威に打ち勝つと、イスラエル系アラブ人達は、これまでになく大きな国内の懸念として浮上するであろうことを示唆する。事実、私が予測するには、彼らは、テオドール・ヘルツルやバルフォア卿によって先取りされたユダヤ人の故郷を設立するための、最終的な障壁を象徴するであろう。


何がなされようか。レバノンのキリスト教徒達は、国内で、あまりにも多くのムスリム達と連携したので、権力を失い、支配するには小さ過ぎる人口比率になった。この教訓を想起して、イスラエルのアイデンティティと治安には、アラブ市民の人数を最小化する必要がある―民主的な権利を減じることや、ましてや、彼らを国外退去させることによってではなく、イスラエルの国境を調整するというような手段によってである。国境に沿って壁を建設し、家族再会の政策を厳重にする施策をとり、出生率増加の奨励政策を変更し、難民申請を慎重に吟味することによってである。


皮肉にも、これらの行為に対する最大の障害は、大半のイスラエル系アラブ人達が、パレスチナ国家の忠実な市民である代わりに、ユダヤ人国家の不忠実な市民であり続けたいと、際立って望んでいることであろう。さらに、多くの他の中東ムスリムには、(私が「ムスリム帰還」と呼ぶ現象であるが)イスラエル人になりたいという抱負がある。これらの選択は、私が予想するに、その結果、今日の比較的静かな状況を、明日の危機へと転換しつつ、充分な応答に発展しないであろうが、イスラエル政府を身動きできなくするであろう。




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