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徽宗皇帝のブログ

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「収奪の資本主義」からいかに脱却するか
「日々平安録」記事の前半を転載。かなり長文なので後半は割愛。
私は現代思想というのが苦手なのだが、ここに書かれたモダンとポストモダンの違いは、何となく理解できる感じがする。この渡辺氏の考えには多くの欠陥もあり、管理人氏がそれを明確に指摘しているのが後半部分だが、それはここでは扱わない。
私が興味を持ったのは、やはり政治と現実社会に関連する部分であり、モダンとポストモダンの哲学性にはあまり興味が無い。興味がまったく無いわけではないが、「不要不急の問題だ」としか思わないのである。「箸は二本、筆は一本、衆寡敵せずと知るべし」の「箸は二本」の側に私は与するわけだ。
要するに、次の部分だ。(誤字はそのまま引用する。)



 A)自分は若いときに共産主義的理想主義にとらわれていた。しかし、今になって見えてくるものがある。


 B)資本家労働者搾取する制度であるというのは資本主義の初期段階だけのことであった。資本制とは(市場主義的経済とは)、かっては王侯貴族に限られていた奢侈的消費を万人に可能にするシステムだったのだ。しかし、そこでは消費はすべて商品のかたちをとり、人間自身も商品にならねばならないのだが。


 C)日本の社会主義者や労働組合指導者、あるいはマスクス主義者が何を言っていたか? わが国の労働者アメリカ労働者のように各人一台の車を持てるようにせよ! 一軒の持ち家を与えよ! 一台のテレビを! 電気冷蔵庫を!、電気掃除機を! ではなかったか? それを可能にする所得を与えよ!ではなかったか? 家族がいつでも病院にいけて、子供が最高学府までの教育を受けられるような賃金を与えよ!であったのではないか? しかし彼らははそんなことは資本制の体制下ではできないことであると考えていた。だからこそ社会主義革命を希求した。しかし、現在の高度資本主義諸国の現状と、社会主義諸国の現状をみれば、答えはでているではないか? 高い所得と高度の消費を可能にしたのは資本主義のほうだったのだ。



この部分は、たしかに「少し前までの現実」と一致しているように思えるだろう。だが、問題は、果たして、「現在、そしてこれから」はどうか、ということだ。
要するに、「東側体制への牽制のために」西側が採ってきた「半社会主義的福祉政策」が、東側の崩壊(ソ連崩壊)によって、遠慮なく下から上へ収奪する、という強欲資本主義体制に変わってきたのである。
明白な格差社会化と下層の極度な貧困化というのが、アメリカでも日本でも起こっているではないか。それを考えれば、はたして「社会主義の敗北、資本主義の勝利」という結論が出せるかどうか。いや、むしろこれから、社会主義こそが「正しい」ことがますます証明されるのではないか、と私は考えている。
社会主義を未来の社会体制として考察する時、社会主義の持つ、「官僚支配社会」化の傾向に、どう抑止をかけるか、というのが今後の大きな考察課題になるのではないだろうか。


(以下引用)


2015-08-23

[][]「ポストモダンの行方」(「渡辺京二評論集成3「荒野に立つ虹」所収、渡辺京二コレクション[2]民衆論「民衆という幻像」にも所収)Add StarTyuricomoikai

 


 この「ポストモダンの行方」は長崎大学において1988年におこなわれた学生への講演の記録である(後で加筆はされているらしい)。ちくま学芸文庫版で37ページほどの分量の30年近く前におこなれた講演ということになる。とすると、わたくしが40歳過ぎのころで、当時渡辺氏は57歳。そのころはまだ東側もあって、ポストモダン思想も隆盛だったのかもしれない。


 以下、まず氏の論をみていく。


 1)ポストモダンとは、近代を成立させていたパラダイムである合理性・論理性への信頼などの合理主義的世界観、人間中心の考え方(つまりヒューマニズム)、進歩への信頼などが崩れたということを主張する。しかし、近代的な世界観はもともとは19世紀のものであり、それが崩れはじめたのは第一次世界大戦がヨーロッパにあたえた衝撃をきっかけにしてであった。それ以前にも、ニーチェなどの思想家は近代にゆさぶりをかけていた。


 しかし、ポストモダン思想以前の近代批判は、批判しながらも、何かそれに代わる信じうるものを持ちたいという希求を根底にもっていた。近代が崩壊するというのは悲劇的な事態と捉えられていたのである。しかしポストモダン思想は、近代パラダイムの崩壊は解放であるととらえ、そこに自由な空間を見出すのである。それがいままでの近代批判とは異なる。


 2)ポストモダン思想は、その根底に、人間の文化は本質的に恣意的なものであるというアイディアをもっている。それは言語学者ソシュールに由来する。ソシュールは人間は言語を持ったという点において、人間以外の動物とはまったく異なる存在となったとした。言語は対象を分割する(ソシュールの言い方での、あるいはそれを日本に紹介した丸山圭三郎氏のいいかたでの「言分ける」)が、その分割には根拠がない。山や川があるから「山」や「川」という言葉ができるのではなく、「山」や「川」という言葉ができたから、われわれは山や川を見るという考えである。世界をどうみるかは恣意的なものであることになる。実在には根拠がないことになる。とするならば、文化というものもまた恣意的なものであって、何の根拠もないことになる。人間は言語を獲得した時点において、自然とは分離して、恣意性を基礎とする文化の世界にはいることになる。


 3)ポストモダン思想のもう一つの支柱が文化人類学である。文化人類学は異なる諸文化の制度・習俗・生活習慣・道徳はすべて等価であるとする。それらを評価し、優劣を裁断する普遍的価値基準はないとする。これまた相対主義である。


 4)19世紀以降の大思想は人間がある目的あるいは使命を担っていると考えていた。しかし、ネオ・ダーウィニズムによれば、人間の存在もまた偶然の産物である。その偶然の存在である人間がたまたま言語をいうものをもってしまったために、人類の存在意義とか使命とかいった戯言を生み出すことになった。これが人間を抑圧している、とポストモダン思想はする。。


 5)ポストモダニストも近代パラダイムが解放と自由を追求して来たことを認めないということではない。それは前近代的規範を解体することはした。しかし今度は別に、新たな強迫的な見方である歴史主義、近代ヒューマニズム進歩主義といったものを生み出してしまった、とする。


 なぜそうなってしまうのか? 人類に何か目的があるする思考が問題で、そこから不自由と抑圧が生じてくるとポストモダン思想は考える。しかし、宇宙には何の目的もない。人間が存在していることにも何の意味もない。そう思えるようになることで、人間は自由で能動的になれる、そうポストモダン思想はいう。


 それに対して渡辺氏はどう考えるのか?


 a)ポストモダンとはモダンを否定してると主張するが、実は、モダンの最終局面、あるいはモダンの頂点なのである。


 b)現代は18世紀の啓蒙思想家由来の反規範・反伝統・反抑圧・一切の価値の解体という運動がいきづまりをむかえている時代である。18世紀啓蒙の頂点にポストモダンの運動があるのであるから、それもモダンの一部である。


 c)18世紀の啓蒙思想も19世紀の自由思想も、人間を拘束してきた様々なもの、たとえば、伝統的な人間理解や世界理解をのりこえようとしてきたが、その時の武器は「合理性にもとづく知的懐疑」であり、その基準にある思想は「個人の解放」であった。かれらの最大の価値が個人の自由であるということは、彼らが近代主義の正統のなかにいることをなによりもよく示している。


 d)モダン宗教的な物語、「神」を解体しようとしたが、それに代わる新しい物語も必要とした。それがヘーゲルからマルクスにいたる歴史弁証法であり、ホッブスからルソーをへてミルにいたる市民的政治思想である。


 e)ポストモダニストが目指すものが、自由の擁護、個人の権利の主張、国家的諸制度に対する市民主義的抵抗、フェミニズム、マイノリティ擁護、コスモポリタニズムへの傾斜などであることを見れば、かれらが素朴な近代的価値の信奉者であることは明らかである。


 f)かれらの自由浮動の正当化は80年代以降の高度消費文明ときわめて整合的である。


 ここから議論資本主義論にうつる。


 A)自分は若いときに共産主義的理想主義にとらわれていた。しかし、今になって見えてくるものがある。


 B)資本家労働者搾取する制度であるというのは資本主義の初期段階だけのことであった。資本制とは(市場主義的経済とは)、かっては王侯貴族に限られていた奢侈的消費を万人に可能にするシステムだったのだ。しかし、そこでは消費はすべて商品のかたちをとり、人間自身も商品にならねばならないのだが。


 C)日本の社会主義者や労働組合指導者、あるいはマスクス主義者が何を言っていたか? わが国の労働者アメリカ労働者のように各人一台の車を持てるようにせよ! 一軒の持ち家を与えよ! 一台のテレビを! 電気冷蔵庫を!、電気掃除機を! ではなかったか? それを可能にする所得を与えよ!ではなかったか? 家族がいつでも病院にいけて、子供が最高学府までの教育を受けられるような賃金を与えよ!であったのではないか? しかし彼らははそんなことは資本制の体制下ではできないことであると考えていた。だからこそ社会主義革命を希求した。しかし、現在の高度資本主義諸国の現状と、社会主義諸国の現状をみれば、答えはでているではないか? 高い所得と高度の消費を可能にしたのは資本主義のほうだったのだ。


 自分がそのことに気づいたのは1960年代の終わりだった。その頃、公害で日本はこれから地獄になると信じていたひとに、そんなことはない「この国はまことに結構でしあわせな国になるでしょう」と言ったが通じなかった。


 自分は少年のころからマルクスの思想は「類的存在としての人間の実現をめざすもの、人間のあいだに真の共同のきずなを樹立しようとするものと考えていた。貧困とか弱者の救済などは社会主義より資本主義のほうが解決能力を持っていると思っていた。そのころに水俣病患者にコミットすることになるが、「支援者」の99%と「運動」にかけるものが違っていた。


 しかし「結構でしあわせ」ということについて20年前の自分は「豊かな社会」であってもそれはアノミーをおこすだろうという程度の認識だった。最近ではウォーラーステインらの業績で資本主義という世界システムは16世紀にはじまるという説が有力になってきている。アジアの産物(スパイス、胡椒、金銀、宝石)がヨーロッパを誘惑した。アジアとの交易ヨーロッパを富ませた。商品が人びとの生活を豊かにし、レベルアップさせるという近代の原点がここにある。それはわれわれを豊かにはしたが。人間と土地というもっとも商品化になじまないものを商品としてしまった。それには当然大きな反抗がおきる。カール・ポランニーはそれを「自己調整市場という悪魔の挽き臼に対する「社会防衛運動」」と呼んだ。しかし、それでも資本制はその矛盾や危機を何とかのりきってきた。それは資本制が消費者大衆に生活向上をもたらしたからである。


 一切が商品として現れる社会を「商品集中社会」という概念で批判したのが、イヴァン・イリイチである。彼は一時はエコロジー派から歓迎されたけれども、前近代への退化の主張ではないかという批判は消えなかった。彼も資本制的産業も分業も否定はしていない。かれが主張したのは、商品に一切を依存することによって生じる人間の自由・自主性の喪失であった。この自由。自主という概念は、しかし、近代論者のものとはまったく異なる。それは「実在としての世界と相互に浸透しあい、交感・交響しうる個の能力」のことなのである。その自由は、風土をともにする仲間との共同のうちにしか具現しない。


 イリイチはヴァナキュラーということをいう。土着的あるいは風土的というようなことであるが、人間が土地であれ海であれ、自然という肉感的具象的実在と関わって一定の地域的・集団的生活を織りなし、生命ある実在と交感・交響する中で、自己の自主的な生産=消費の全活動を、ほかならぬ個の自由のあかし、自分がこの地上に生を享けて来たことの意味の実現として了解できるような、そのような存在のしかたなのである。


 これは近代論者の立場から見れば、途方もない戯言であろう。しかしそうでないことを明示しているのが、石牟礼道子の「椿の海の記」である。みなさんも一読されんことを。農業や漁業は森羅万象との心身両面での交渉である。洗濯や炊事も同様で育児も同様であるということは読めば了解される。そういう生活を解体させてしまったのが、資本の運動なのである。


 自分は今でも抜きがたいへーゲルの使徒であることを自覚している。その止揚という着想を捨てられない。新しい時代によって滅ぼされた古い時代は、来たるべきさらに新しい時代のうちに次元を高めて甦るという思っている。近代という時代に滅ぼされた前近代との対立を止揚するものが近代の後にくる新しい時代でなければならない。前近代の神話的・コスモス的世界観をも甦らせながら、近代の切り開いた知と市民的自由を確保するものでなければならない。


 マスクスは近代主義者であったので、コスモスへの自覚はなかった。自己と他者を媒介するより大いなる存在に気付けなかった。


 人間が他者共存できたのは、自分と他人をつなぐより大きな存在、つまり森羅万象があったからである。そういうものなしにはドライな社会契約ではない真の魂の関係は生まれない。


 このようなコスモスを近代は完全にうち滅ぼしてしまった。それゆえに、市民的連帯とか民族的共感とか、階級的団結などがいわれるようになった。しかし背景にコスモスとの交感がなければ、人間同士は根本的な相互不信を払拭できないから、利害と欲求の功利的調整のみの世界になってしまう。


 だから、近代人の最大の関心が金と健康となってしっている。しかし、そうであるなら死ねばすべてが終わりである。死を前にすると現代人は虚無に直面せざるをえなくなる。しかし江戸末期に日本にきた外国人は当時の日本人が従容として死についていくことを驚きをもって報告している。アリエス中世の西欧人も同様であったとする。彼らにはコスモスがあったのである。ポストモダンとは、このようなコスモス的な世界理解を根拠のない盲信として解体していこうという運動である。


 実存世界をどのように認識するかは、生物の種によってそれぞれ異なる(ユスキュキュルの環境世界)。人間は言語を持つ点で特異であるとポストモダニストはいう。しかし言語もまた生物進化、もっといえば地球進化の産物である。サルもまた精神を病むし、発達した脳を持ち、集団で生活し、政治をおこなう。人間は自然と隔てられた本能を失った特異な動物だという主張は、裏返しにされた人間至上主義なのである。


 


 この講演は相当前におこなわれているから、今でもここでの見方を渡辺氏が保持しているか否かはわからない。けれども、これを読んでの感想は、リアルな部分と空想的で観念的な部分の混在である。


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