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徽宗皇帝のブログ

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「悪の凡庸さ(凡庸性)」とは何か
メールマガジン「オルタ」所載の、武田尚子という人の論説の最後の部分である。ハンナ・アーレントに対する詳しい記述については省略するので、以下の記述が少しわかりにくいかもしれない。ここでは、「悪の凡庸さ」または「悪の凡庸性」という言葉についてだけ論ずる。

ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」という言葉は、もっと明確に「悪は誰の中にもある」とするべきだろう。「凡庸」という訳語自体が「つまらないもの」というニュアンスを持っていて、不適切だ、ということだ。ここではとりあえず「常人性」としておく。
アイヒマンという人間の中に「普通の人間」しか見られなかった、ということを彼女は「悪の凡庸さ(常人性)」と表現し、それがナチスを免罪するものだとしてユダヤ社会から彼女は非難されたわけだが、彼女の論文全体の下手糞で気取った言い回しが誤解を生んだにすぎない、と私には見える。もっとも、これはハンナ・アーレントを巡る騒動についての記述から私が推測したものにすぎない。彼女の著作など読んでもいない人間の妄言だ。私の文章はたいていそんなものなのである。
さて、「悪の凡庸さ(常人性)」とは、「誰でも、その立場にあれば悪を為すものだ」と言い換えれば、前阿久根市長竹原氏がよく言う「立場主義」と同じである。もっとも、氏が「立場主義」という言葉を使っていたか忘れたが、そういう趣旨のことを言っていたと記憶する。言うまでもなく、ここで言う「主義」は、「反知性主義」の場合と同様に、無意識にその人を縛る超自我だから、本来意識的なものであるべき「主義」という言葉は本当は不適切である。
ヒトラーの場合、自分が悪を為している、という意識はなかっただろう。むしろ、ドイツを救う、偉大な行為を為している、と信じていたはずだ。そうでなくては、あれほどのカリスマ性は持ち得なかったはずである。これは、「悪の凡庸さ」とは別なもので、「主観の異常な肥大」「誇大妄想狂」の類だろう。現在の安倍総理はそれに近い。一方、アイヒマンなどの場合は、己れの立場を絶対視し、それを守ろうとした結果、自分の為す非人間的行為に対する感受性が鈍磨し、悪が悪だと認識できなくなっていったかと思われる。これは原子力村の連中と同様だろう。ほとんどの官僚の悪事はこれである。これは確かに「悪の凡庸さ(常人性)」であり、「誰でもその立場になればきっとそういう事をやる」という、実に解消するのが困難な、人類の病である。ヒトラーとアイヒマンに共通するのは、非凡と平凡の違いはあれ、「不適切な自己認識」の一点であるが、「汝自身を知れ」というのが人間の最大の難問であるのはソクラテスの昔から変ってはいない。
で、結論は何かと言うと、社会悪に対し、個人を非難攻撃するよりも、個人をそう仕向ける社会システムをどう変えるかに頭を使ったほうがいい、ということだ。
もっとも、橋下某や安倍某などのように、目の前でどんどん社会を破壊していく人間(まさに、彼らこそテロリストである)に対しては、その人間をすぐに逮捕拘束するべきだとは思うのだが。(笑)


(以下引用)*赤字部分は徽宗による強調。この部分だけを読んでも「凡庸」の意味が「つまらないもの」ではなく、「人間の内部に普遍的に在るもの」の意味だと分かるだろう。



人間の性格は柔軟性があり、変わりうる。
 適当な環境に置かれれば、普通の礼儀正しい遵法型の人々でも、人類に対する非難すべき犯罪の協力者にも、実行者にも変わりうるのだ。アーレントの見方によれば、真の正義は全体像の暴露を要求する。自らをすべて暴露すると同時に、全体像を見なくてはならない。ナチスの人類に対する罪の懲罰だけでなく、政治制度が、いかにして犯罪者や傍観者や、犠牲者さえも共謀者にしてしまうかを知る事だ。もしも悪が凡庸であるなら、それはどこにでも現れるだろう。ナチスだけでなく、犠牲者の間にさえ、ユダヤ人にさえ、そしてイスラエルにさえみつけられるだろう。



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