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徽宗皇帝のブログ

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「自称『覚醒者』」よさらば
「混沌堂主人雑記」所載の記事で、筆者は西山隆行という評論家らしい。初耳だが、この記事を読むかぎり、かなり知性の高い人物のようだ。ただ、使用されている語句が一般人には馴染みのない言葉であることを考慮して、簡単な説明を加えるべきではないか。発言は、人に聞かれ、理解されて初めて意味があるわけだから。
私流に説明する。
「ウォーク」:自称「目覚めた人」(この「自称」というのが肝心。他から見れば狂信者)
「アイデンティティ」:自分が自分である、その本質と自分が考えるもの。自我。或る皮肉屋によれば、デカルトの「我思う。故に我あり」は、正確には「我思うと我思う。ゆえに我ありと我思う」と言うべきだ、とのことである。フロイトの「無意識、超自我」説のほうがデカルトより正しいと私は思う。
「アイデンティティ・ポリティクス」:自我絶対主義。超エゴイズム。
「リベラリズム」:自由主義。しばしば、敵対集団の自由は完全に抑圧する。究極のリベラリズムはアナーキズムの同類だが、当事者たちはそれを認めない。文化や伝統の破壊に邁進する。

(以下引用)

上記文抜粋
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ウォーク・アウェイ運動――アメリカのリベラル派はなぜ嫌われるのか
リベラルと民主党から立ち去ろう!――ブランドン・ストラカというニューヨークのゲイの美容師が、自分は嫌悪に満ちたリベラルと民主党を支持することは出来ないため立ち去ることにしたという内容の動画をYouTubeで発表したのが話題になり、「ウォーク・アウェイ運動」がアメリカで展開されている。
かつて自分はリベラルだった、という言葉で始まるビデオで、彼は、人種・性的指向・性別に基づく差別や独裁的思想、言論弾圧を拒絶するために昔リベラルになったが、今では、それとまったく同じ理由からリベラルと民主党から立ち去るのだと説明している。SNSには彼に賛同した人々によって、なぜ自分がリベラルに愛想をつかしたのか、民主党を捨てたのかを告白するメッセージが数多くあげられている。
このウォーク・アウェイ運動は組織だった運動ではないので、彼らの掲げるメッセージは多様である。リベラルに愛想をつかしたという人もいれば、左派に愛想をつかしたので自分と同じリベラル派は民主党から立ち去ろう、という人もいて、ウォーク・アウェイ運動が目指すのが、民主党批判なのか、左派批判なのか、リベラル批判なのかは厳密にはよくわからない。
これは、アメリカにおいてリベラルや左派という言葉の用いられ方がもともと曖昧なことにも原因がある。だが、民主党系の政治家や活動家に対する批判の高まりと、トランプに対する支持の強まりという近年のアメリカ政治の流れを反映していることは間違いない。
日本では、保守という言葉に批判的な人が多い一方で、リベラルという言葉にはよいイメージを持つ人が多い。だが、今日のアメリカでは状況は異なる。ギャラップ社が発表したアメリカ国民のイデオロギー調査によれば、1990年代から今日まで、保守を称する人はアメリカ国民の4割弱、リベラルを称する人は2割程度で、リベラルよりも保守の方が評判が良い。
2017年には自称保守は35%で、自称リベラルが26%に増大したため、ギャラップ社が現在の調査方法を導入して初めて、両者の差が10%未満となった。また、民主党支持者の半数以上がリベラルを称するようになったのは、調査開始後初めてだという。このように、トランプ政権に対する反発もあってリベラル派が勢力を増大させてはいるものの、アメリカではリベラルが良いイメージでとらえられているわけではない。
では、アメリカにおけるリベラル派とはどのような人で、どのようなイメージを持たれているのだろうか。
今日のアメリカ政治で一般的に用いられている意味でのリベラルという言葉は、フランクリン・ローズヴェルト大統領のニューディール政策を実施した人々が自らをリベラルと称するようになったことによって登場した。アメリカでは連邦政府は大きな役割を果たすべきでないと伝統的に考えられていたため、大恐慌が発生してもハーバート・フーヴァー大統領は積極的な策を講じなかった。その方針を転換し、公共事業を実施したり、年金を導入したりするなど、政府機能の拡大を目指す人がリベラルを称するようになった。
第二次世界大戦後、アメリカでは30年に及ぶ好景気が続くことになり、そのきっかけを作ったとされた民主党に対する支持が続いた。大統領選挙で共和党候補が勝利することはあったものの、連邦議会選挙(とりわけ下院)では民主党が共和党に優位していた。その中で、自らの利益関心を実現したいと考える人々は、勝ち馬に乗ろうとして民主党陣営に加わった。1960年代以降には、黒人やエスニック集団、女性、LGBTなど、自らのアイデンティティの実現を目指す人々や、環境保護など新たな価値の実現を目指す人たちが民主党連合に加わり、リベラルを称するようになった。
民主党とリベラル派が優位する時代にあっては、民主党陣営を構成する集団は、拡大するパイを他集団と奪い合う関係に立ったため、必ずしも協調的な態度をとらなかった。また、1960年代に学生運動や第二派フェミニズムの活動家が「個人的なことは政治的なことである」というスローガンを掲げたことに象徴されるように、リベラル陣営で影響力を増大させた人々はアイデンティティの実現を重視した。
アイデンティティの実現を目指す活動では、自らのアイデンティティについて他から介入されることは往々にして想定されない。また、経済的利益とは異なり、妥協は容易でない。これらのことが重なり合った結果、アイデンティティを重視するリベラリズムは、非妥協的な立場をとるようになっていった。リベラル派は、保守派の目には、非妥協的で協調不可能な存在に映るようになっていったのである。
アイデンティティ・ポリティクスを展開する人々の議論やスタイルには、いくつかの限界があると指摘される。
第一に、アイデンティティ・ポリティクスを主張する人々は、多数派に属すると考えられる人々のアイデンティティや利益関心に十分に配慮しないことが多い。マイノリティとされる人々を社会的弱者と見なし、そのアイデンティティと利益関心の実現が追求される。アメリカの多文化主義者はしばしば、マイノリティの文化を擁護するよう主張する一方で、伝統的な主流派文化を白人に有利なように偏ったものと位置付け、白人(とりわけ男性)を既得権益者とみなす傾向が強い。論者によっては、白人(男性)を、マイノリティを無意識のうちに見下す差別主義者と位置づけることもある。
だが、一連のトランプ現象が明らかにしたのは、アイデンティティ・ポリティクスの担い手や多文化主義論者が既得権益者と見なした人の中でも、労働者階級の白人は、自分たちを被害者とみなしていることだった。
彼らは、社会的に成功した白人からは見下され、マイノリティからは積極的差別是正措置という名の逆差別を受け、家庭内では妻に見下されている(製造業の衰退によって、主たる家計支持者としての立場をサーヴィス業に従事している妻に奪われた場合は特に顕著である)という三重の被害者意識をしばしば抱えている。ある論者はこのような労働者階級の白人(男性)のことを「新しいマイノリティ」と呼んでいるが、彼らはアイデンティティ・ポリティクスに代表されるリベラル派の議論の射程には入ってこず、民主党とリベラル派に不満を感じているのである。
第二に、アイデンティティ・ポリティクスを重視する論者は、差異を強調するあまりにしばしば対話を拒否し、アメリカ国民全体に共通する利益の実現を目指していないとみなされることがある。リベラルの立場からリベラルの再生の道を模索するマーク・リラが指摘するように、アイデンティティ・ポリティクスを重視する人々が自らの立場を絶対視する態度をとり始めると、立場を異にする人々が議論を積み重ねることで互いに歩み寄り、共通の利益の実現を図るという、リベラル・デモクラシーが目指してきたものが達成されなくなってしまう。
ニューディールの実現を目指したリベラル派が目指していた社会政策を実施するには、国民の間で何らかの一体性の感覚や連帯感が存在することが不可欠だった。だが、アイデンティティ・ポリティクスの提唱者が異なる立場を尊重するよう他者に要求する一方で、自らとは異なる立場に徹底的に不寛容な態度をとるようになると、対話が成立しなくなり、全体に共通する価値や利益の実現を目指すことができなくなってしまう。
第三に、アイデンティティ・ポリティクスを重視する論者の暴力性が、ときおり指摘される。アイデンティティ・ポリティクスの提唱者やリベラル派は、集団の尊厳や人権など、それ自体としては誰も否定しない価値を掲げ、異論を認めず敵対者を非難・攻撃する人と見なされることがある。
その非難・攻撃というスタイルはじつは暴力的だが、その暴力性に無自覚な人も多い。仮にその暴力性を認識していたとしても、自らは弱者の味方で、正しい規範に依拠していると考えているため、その暴力性を正当化する人もいる。そして、自らに対する批判をリベラルな規範の否定と捉え、糾弾者をさらに批判する。その際には、批判者の発言内容だけではなく、人格や動機も含めた批判がなされることもある。
このような状態は、自らの奉じる価値や規範は絶対視するものの、他者に対する敬意を欠くものと見なされ、非難されている人にはダブルスタンダートに映る。それがリベラルに対する敵意を生み出す要因になっている。
このような背景の下、今日のウォーク・アウェイ運動は発生している。
第二次世界大戦後のアメリカを、世界でも魅力的な存在としてきたのは、まぎれもなくリベラル派の功績である。彼らは多くの人々の生活を保障し、尊厳を認め、希望を与えてきた。だが、リベラル派内では、その構成要素が多様化しているにもかかわらず、内部での対話すら十分になされなかった。その結果として、リベラルとリベラル以外の人との距離は一層広がってしまった。
リベラル・デモクラシーを意味あるものとするためには、異なる立場の間で対話を成立させ、信頼と合意を形成していくことが不可欠である。だが、今日、アメリカの社会全体で対話が成立しなくなっている。そのような状態の責任は、リベラル派のみにあるわけでは決してない。減税、銃規制反対、中絶禁止などの立場をとる保守派も同様に激しく対話を拒絶している。分極化傾向が強まっている今日のアメリカで、保守とリベラルの人々による対話可能性は一層低くなっている。だが、今日では、自らを保守でもリベラルでもないと位置づける人々がアメリカ国民の最大勢力である。ウォーク・アウェイ運動は、それらの人々とリベラルとの間の対話も不可能になっている事態を示している。
2018年の中間選挙で、民主党は下院で議席を増大させた。比較的選挙区が狭い下院の選挙では、同質的な有権者集団に対するメッセージを投げかければ勝利することができるため、多様な観点を踏まえた複雑なメッセージを出す必要はなかった。だが、2020年の大統領選挙で勝利するためには、広範な有権者の支持を獲得することが必要になる。
今回の選挙のように、トランプに対する敵意とアイデンティティ・ポリティクスを前面に出すだけではダメである。民主党とリベラル派は多くのアメリカ人によって支持されるビジョンを示すことが必要になるだろう。

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