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徽宗皇帝のブログ

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「after安倍」の日本の可能性を考える(5)
5:総括

「総括」と書いたが、これまで書いた内容自体、簡明なものであり、総括する必要は無いだろう。ここでは、ほかの重要問題、たとえば「日本の国体」や「外交」「憲法」その他を考察してみる。

ⅰ:日本の国体

私は、現在の日本国憲法の「象徴天皇制」が日本という国の個性として大事だと思う。もちろん、これも憲法に明記されているように、天皇は一切、政治に関わらない、ということでいいが、現在のように、その「政治に関わらない」の意味を厳密化した「一切の政治的発言すら許さない」という一部の政治家の姿勢には反対である。それは「ひとつの意見」として聞けばいいだけだし、それさえも許さないのは「天皇には人権は無い」と言うのと同じだろう。
問題は、今の日本の形骸化した「民主主義」であり、形骸化した(あるいは権力や金力によって捻じ曲げられた)「選挙制度」である。つまり、今の日本はそもそも「民主主義国家ではない」わけだ。で、「民主主義」とは原理的に存在可能か、と私は疑問視している。今の日本の主権者は政府の総理であり、その背後のカルト団体であったり経団連だったりするわけだ。これは、どのように制度を変えても、「代議制民主主義」では主権者は民衆ではありえない、ということだ。ルソーが言うように、「民衆は選挙の間だけ主権者で、後は奴隷である」わけだ。
プラトンが最善の政治形態としている「哲人王の統治」が理想だが、それに近いのが実は日本の天皇という存在ではないか、と私は思っている。つまり、生まれてから成人するまで、常に自分自身と国家の運命を重ね合わせて考えることで、国家の運命を誰よりも真剣に考える資質を身につけられるわけだ。しかも、「象徴天皇」とは「国民統合の象徴であり、その存在は国民の総意に基づく」以上、常に「国民の総意」を何より優先して考えることになる。それが「象徴天皇制」の価値だ、というのが私の考えである。
天皇はもっと自由に、(しかし慎重に)政治的な発言をしてもいいし、日本という国の危機に際しては、国民は天皇を担いで時の「横暴な政権」を倒してもいいのである。それでこそ、「国民に主権がある」ことになるし、天皇が国民統合の象徴であることになる。
私の「尊皇主義」は上に書いたように「天皇機関説」としての尊皇であり、一部の人にはむしろ天皇の冒涜と思われるかもしれない。しかし、伝統は伝統であるだけでも何かの意義があって存続したのであり、それが2000年近い伝統だとなると、その価値は測り知れないのである。


ⅱ:外交

まあ、これに関しては日本が米国の属国である限り、論じても無駄だろう。亀井静香が言っているように、「まずは日米安保条約を破棄してからの話」である。その「日米安保」は安倍の祖父の岸信介(CIAの配下)が総理の時に再締結(60年安保)したものであるわけだが、今回の安倍の射殺は「日米安保条約」が破棄される前触れかもしれないwww

ⅲ:憲法

当然、「日本国憲法主権者論」の私としては、憲法改定(改悪)は絶対にしてはならないと主張する。大袈裟に言えば、世界で唯一の「不磨の大典」である。
当然、軍備は最低限でいい。核兵器の時代には、戦争になればどうせ庶民の命を守ることは不可能である。最初から降参するか、暗殺部隊を作って相手国首脳を暗殺すればいい。

ⅳ:報道機関の問題

これは重要な問題だが、とにかく、政治やカルトやスポンサー企業の紐付きでない報道機関を作る必要がある。しかし、資本主義国でそれが可能だとは私は思えないのである。「赤旗」や「長周新聞」がもっと全国紙というか、気軽に購入できるようになるべきだろう。

ⅴ:総括

まあ、思いつくことはだいたい書いたから、「これでオシマイ」(森鴎外の臨終の言葉だったと思う。)である。


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