私の子供のころ、今から60年くらい前のことだが、街を歩いている人のなかに、今とは比較にならないくらい、身体的、精神的に異常を感じる人が多かった。
それは、大怪我の痕跡を持っている人、大火傷の痕、そして、ひどく黒ずんだ顔色の人など、深刻な病気を抱えていると思われる人たちだ。
東京オリンピックの行われた1960年前後の当時は、1945年の敗戦から、まだ15年、繁華街や駅前には「傷痍軍人」と称する人たちが、まだいて、アコーデオンを演奏しながら軍歌を歌って通行人の同情を誘っていた。
日本人は、みんな戦争の傷を心に負っていたから、彼らに同情しこそすれ、非難したり蔑視したりする人はいなかった。
歌っていたのは、「海ゆかば」だったように思う……凄い歌詞だ。
しかし彼らは、1960年近くでは、ほとんどニセモノばかりだった。
年齢から考えて戦争に行っているわけがない若者までいたから、たぶんプロの乞食業者なのだと分かった。みんな切断された手足を、これ見よがしに剥き出していた。
工場や工事現場で大怪我をしても、長期的に、ほとんど救済されない時代だったから、傷痍軍人のフリをして乞食で食うしかなかったのだ。
当時は「乞食」が職業として立派に成立する時代だった。人情の厚い時代だったから。
街中には、戦争で大怪我をした跡を体に刻んだ人もたくさんいた。顔を大火傷した人も多かった。焼夷弾が大量に落とされた街では、露出した顔や腕に大火傷を負うことが多かったのだ。
また、繁華街で行き倒れている人も多かった。彼らは、一様に、痩せて黒ずんだ顔をしていた。
これも1960年前後だったと思うが、私の家の近く、太閤通り3丁目交差点から南に数百メートルの道沿いに、いつでも異様な風体の危なそうな男たちが群がっている施設があった。それが「日本ブラッドバンク」=売血所だった。
それは731部隊司令官、大佐だった内藤良一が設立したもので、後にミドリ十字社になると聞けば、事情を知っている人ならピンとくる。
当時、まだ日赤の血液供給システムがない時代、手術に必要な血液は、売血によってまかなわれていたので、毎朝、開業と同時に、血を売りに来る男たちが列をなしていた。
来ているのは、大半が職を持たないで麻薬やギャンブルに溺れている者たちばかりだったから不健康そのもの。大半が肝炎に冒されていたから、こんな血を輸血されていた当時の患者(交通事故被害者が多かった)は、ほとんど退院後、大変な目に遭っていた。
当の売血者たちは、多くは駅周辺で野宿をしていて、強盗や泥棒も多く、遺体で発見される者も多かった。
若い女性たちは、ここを怖がって通りたがらず、太閤通り3丁目南は危険地帯と認識されていた。だから、この付近は、長い間、便利なのに開発されなかった。
血液銀行が肝炎の蔓延の原因と糾弾されはじめると閉鎖され、今度は「放射線検診協会」と名を変えて、731部隊出身者で占められた厚生省医官とグルになって、全国の学校結核レントゲン検診の請負を始めた。
これも、初期は、間接撮影1枚30ミリシーベルトという被曝量で、一人の結核児童を発見するのに、50人の児童に致死的発癌イニシエーションを与えるというもので、10~30年後に日本女性の乳癌激増に多大な貢献をするという犯罪的なものだった。
売血者たちは、一様に顔がどす黒い者が多かった。ほとんどの者が麻薬に手を染めていた。戦後、日本に麻薬が大量にあった理由は、陸軍の命を受けた岸信介の指揮によって、里見甫・笹川良一・児玉誉士夫らが、戦前、戦時中に、凄まじい量の麻薬(アヘン・モルヒネ・ヘロイン)」を、世界中に売りさばいていて、敗戦後、隠匿された麻薬が、岸や児玉らによって闇市場に流れ出てきたからである。
麻薬王 岸信介 2020年11月18日
戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)2020年11月10日
岸信介は、「昭和通商」という武器麻薬密売組織を作って、当時、世界の麻薬流通量の9割を仕切っていたといわれる。
敗戦後も、その麻薬が日本の闇社会に大量に流れ落ちてきて、暴力団の資金源になっていた。当時の麻薬中毒者=ジャンキーたちは、今より桁違いに容易に麻薬を入手できた。
また、日本軍は、1940年段階で、世界に先駆けて覚醒剤を軍事利用していた。
特攻隊や零戦乗務員などに、半強制的に覚醒剤を与えて、眠気による事故を防いでいたのだ。なお覚醒剤は、ドイツの他、日本人研究者、長井長義・三浦謹之助・緒方章の発明によっている。ナチスとともに、日本軍部がいち早く注目して、戦場で利用されるようになった。
米軍や北朝鮮軍も、戦闘非常薬として使用していることが知られている。
これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡 2021/8/15
戦後は、ヒロポンの名で、何の制約も受けずに薬局で販売されていたので、朝鮮特需などでは、不眠不休の労働に利用され、覚醒剤に蝕まれて腎不全を起こして廃人同様になる労働者が多かった。
そんな人たちが、精神、人格、肉体を崩壊させて会社を追い出され、売血に救いを求めて集まっていたのだ。
ちなみに、私が1990年頃、大門のツバメタクシーに勤務していたとき、近所の喫茶店で、半ば公然とシャブが売られている現場を何回も目撃した。
タクシーや観光バスなど深夜交通の運転手は、パイロットと同じで、シャブがなければ勤まらない仕事だったのだ。
逆噴射、墜落機長などは、みんなが「シャブ中」と噂しあっていた。
私は、公共銭湯などで、顔色の悪い人間を見ると、「暴力団員」と直感する。
それは、シャブ中が昂じると、必ず腎不全を引き起こし、顔色が悪くなるからだ。
1960年頃の中村区では、そんな男たちがゴマンといて、繁華街の片隅で、ひっそりと息絶えている姿を見ることも珍しくなかった。
私の一年下で、文武両道、中学の生徒会長までやった暴力団員の息子は、「二丁拳銃のO」と謳われ、ヤクザ社会のカリスマだったが、人妻との恋が成就しないことで自暴自棄となり陸橋から飛び降り自殺した。
「Oもシャブ中だった」と、後に山口組本家に近い人物からタクシー内で聞いた。
「そのシャブは、どこから日本に来るのか?」 とある人物に聞くと「北朝鮮」と答えた。1990年頃のことだ。
中村区は、北朝鮮系の在日者が非常に多く、万景峰号で行き来する人もたくさんいた。中村区内の暴力団は、ほとんど北朝鮮系ともいわれている。
だが、そもそも北朝鮮金王朝を建国し支え続けたのは、戦時中、残置諜者の任を帯びた、中野学校二俣分校出身のエージェントで、金日成を国王にした畑中理という人物だった。彼らの資金源こそ、岸信介が作った麻薬シンジケートだったのだ。
白い粉との戦い
知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった! 2016年5月18日
以下引用
近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。
漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。
いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。
いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。
いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。
なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。
その理由についても、下村は次のように証言している。
「昭和20年代(引用者註:1945~1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」
つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。
このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。
薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。
なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。
日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。
日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。
この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。
だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。
台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。
なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。
アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。
アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。
こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。
鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。
日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。
このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。
朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。
モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。
当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。
在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。
日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。
麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う
1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。
日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。
1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。
同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。
たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。
これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。
なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。
こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。
戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである
戦争のために配布された覚醒剤
一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。
覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。
ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。
なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。
ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。
このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。
1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。
「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。
副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。
特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。
なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。
このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。
覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。
国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ
このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。
覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。
歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。
個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。
その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
辻田 真佐憲
引用以上、素晴らしい論評である。何も解説することはない。この通りだったのだ。
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