「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から全文転載。
前々から言っているように、私は共産主義(私有財産否定論)自体はナンセンスな思想だと思っているが、社会主義(産業の国家統制、および国民の権利の平等性の拡充)は有益な思想だと思っている。そして、現在の日本共産党の言行を見るかぎり、彼らは共産主義の政党と言うよりは社会主義の政党に見える。だから、共産党を嫌悪し、否定する論者(たいていは年寄りのようだ)が表マスコミにもネット世界にも溢れているのに、少々あきれている。
いったい、彼らは何を恐れてあれほど共産党叩きに走るのだろう。あるいは、どういう利益があって、そのような行動を取るのか。それらの論者の中にも、その一点を除けば立派で有益な言論活動をしている人も多いので、このことは残念でならない。
もちろん、共産主義者が資本家の援助を受けているとか、共産党は保守政権の補完勢力であり、協力者だとかいう説も耳タコである。ならば、それでいいではないか。そういう論を為す者は、たいてい、本当の革命など望んではいないのだから。本当の革命には共産主義も何も要らない。ただ「統制された暴力」が必要なだけだ。
むしろ、今の日本には、田母神支持者の存在が暗示するような、「右翼革命」の危険性の方がはるかに大きいだろう。今の格差社会と貧困に苦しむ若者の中には、新しいヒトラーの出現を待ち望んでいる潜在的な層がかなりな数に上っているはずだ。
今の日本は危機にある、と私は考えている。それは、民主主義の崩壊、という危機である。なかんずく、議会制民主主義の崩壊である。
議会制民主主義にとって絶対に必要なのが、健全な野党の存在である。それが存在しないことをファシズムと言う。
ならば、今の国会にそういう野党は存在するか。
民主党?
維新の会?
みんなの党?
ほぼ完全な大政翼賛会状態ではないか。わずかに、共産党だけが、真の野党らしき存在感を持っている、と私には見える。それは誤りだろうか?
(以下引用)
”一本化”という分断工作
2014-02-11 23:46:37NEW !
テーマ:日蒙開拓団
ファシズムは、”弱い者いじめ”から始まる。
外国人差別を煽った後は、共産党の排除という定番である。
今回の都知事選では、「勝てる候補」「一本化」の名のもとに”分断”戦略が実行された。
この工作には、鎌田だの宮台だのが加わっていた。市民派と思われたブロガーもだ。
細川と小泉を担ぎ出し、盛んに「宇都宮では勝てない」「脱原発なら細川でなければ」と宣伝した。
だが、細川が「脱原発」だという「宣伝」はあったが「根拠」はひとつもなかった。
そもそも、一本化するには時機を逸しており、実務上不可能だったと動画で解説しておきながら、その舌の根も乾かないうちに宮台は、「”居場所”を求める共産党のせいで一本化できなかった」などと述べた。
この動画は細川翼賛カルトたちが拡散させていたが、こんな矛盾があるのに平気で拡散させ、「やっぱり共産党は…」とか、「彼らが”脱原発”なんてウソだ」とか、盛んに囁いていたのだ。
この手口はネトウヨによく見られる。
言うことが「金太郎あめ」になるところもそっくりだった。
さらにのけぞるのは、宮台らが、「保守が加わらなければ脱原発はできない」などと述べ、
「歴史の法則」だったか「歴史の事実」だったか、共産党の「歴史的使命」「歴史の法則」そっくりの「ユダヤ」な言い回しが用いられたことだ。
「保守」といえば、アメリカや東電に買収されているポチどもである。いわば、「敵」の手下だ。
そいつらを「脱原発候補」として勝たせれば、「脱原発」ができるなんてことがあるのだろうか?
それのどこが「歴史の事実」なんだろうか?
今回、この「一本化」騒動で、改めてだれが市民の敵か、スパイかということが明らかになった。
これは極めて重要な事実である。
「真田の戦略」というのがある。
秀吉亡き後、真田家は豊臣方につくか、徳川方につくかの正念場を迎えた。
このときに兄の信之は徳川へ、弟と父は豊臣へと別れて生き残りを図った話である。
しかし、このような例は真田に限らず、ごくふつうにあり、商売人だって対立しているAとBの双方に媚を売って、どっちが勝っても商売が続けられるように、一族のだれかは生き残れるようにしている。
「リスクの分散」というやつである。
よって、「敵」は左翼にも右翼にも自分の身内を潜り込ませているし、原発推進にも、反原発にも、自分の兵隊を潜り込ませているものと思われる。
資金もコネもあり、「敵」側の情報もはいってくるわけだから、実績を上げてのし上がってくる。
しばらくすると、どの組織、どの派閥も、乗っ取られているか、影響力の及ぶようになっている。
そういうことだから、幹部クラスほど信用できない。
活躍し、目立っているやつほど信用できない。
ところが、一般人は逆に考えがちのようだ。
左翼で目立って、がんばっていたら「ミスター左翼」だと思い込んでしまう。
「脱原発」で目立って頑張っていれば、「ミスター脱原発」だと思い込む。
浅はかである…
だから、「見た目」で決めつけてはいけない。
言動が一致しているか、事実と主張が一致しているかを見なければいけない。
あべなどは、きょうもウソをついていたそうである…
今回のように、初めから「一本化」がムリなのに、散々わめいたあげくに、「一本化できないのは共産党のせいだ」とネガキャンして回ってる場合は、すぐに気づかなければいけないだろう。
ところが、どうも「一本化」にあらぬ夢、幻想を抱いているかのような人々が少なからずいた。
振り込め詐欺と同じ手口でやってきているのに、どうしてわからないのか、私にはそれが不思議である。
小泉は早々にツイッターも閉じたのだそうだ。
だいたい本人がつぶやいているという保証もない。
すでに記事にしたように”負けたら大変”詐欺だったのである。
そして、舛添当選で、やたらとがっかりしている…「負け」たと…
猪瀬が、舛添に変わっただけのことが、どうして「負け」なのだろう?
「不正選挙」が言われているというのに…
また、選挙で勝っても、公約は守られないことが常態化しているというのに…
選挙に「勝った」ところで、なにひとつ確実なものがない。
み~んな根拠のない”思い込み”を信じて「一本化~」と寝言を言っていたのだ。
終わってみれば、この「一本化」騒動で、「脱原発」が分断された事実だけが残った。
これが分断工作だったことは、明らかではないのかな?
選挙が終わって、不正選挙の新たなネタが出て、医者も不正に関わっているという話もでてきている。
選挙が終わったから、もう「一本化」でもめる材料もない。
「負け」どころか、いまこそ舛添リコールへ向けて総攻撃をかけるタイミングではないか…
選挙では、候補乱立で分断されるが、リコールなら一致して力を集中できる。
ムリして「ひとつ」にする必要がない。しなくても「ひとつ」になる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、かかってるお医者さん大丈夫かな~、こんなことしてるんだよ~」
こんな感じでじわじわと、とんでもない”事実”を広めるチャンスではないだろうか。
「勝てる候補」の前に、「公約が実行される」状況づくりが先であろう。
そうでなければ、勝ったところで無意味である。無意味な「勝ち負け」にこだわり、分裂し、一喜一憂…
あまりにも愚かではないのか?
「勝ち負け」にこだわること、だれかを「応援」すること、それがそもそもの大間違いなのである。
選挙権は裁判官のようにふるってこそ、主権者の実権として機能する。
選手や観客が審判を兼ねているのが、いまの選挙だ。だからデタラメになる。
選挙運動をする人は、その選挙において選挙権を行使してはいけない。
それこそが「不正」にほかならない。
このような制度設計の段階から「不正」が織り込まれてしまっていることが一番の問題だ。
こんなことになるのは、人々が次のように考えているからだ。
「民衆が政治家を選ぶから、民主主義」…
これは、絶対王政などと比較すればそうだというだけで、大間違いである。
前にも述べた。そもそも初めは「くじびき」だったのだと…
正しくは…
「民衆が、政治や政治家を監視するから民主主義」…
…なのである。
だから、政治家を「応援」したり、仲良くなってしまえば、それは「不正」である。
人々は、一生懸命「不正」を「民主主義」と思って実践しているわけだ。
日本が民主国家にならなくて当然であろう。
政治家をきちんと監視して、背任行為には直ちに解任して、民衆が主権者であることを思い知らせるのは、選挙権よりもリコール権の方が重要である。
公約違反が行われればただちにリコールされるということでなければ、民衆が舐められる。
公約違反をしても次の選挙でまた当選してしまう状況で、だれが公約など守るであろうか?
公約を守らないとわかっている選挙に意味はあるのか?
そんな選挙で「勝った」「負けた」ことに、なんの意味があるのか?
意味のないことで、一喜一憂することほどバカバカしいことはない。、
前々から言っているように、私は共産主義(私有財産否定論)自体はナンセンスな思想だと思っているが、社会主義(産業の国家統制、および国民の権利の平等性の拡充)は有益な思想だと思っている。そして、現在の日本共産党の言行を見るかぎり、彼らは共産主義の政党と言うよりは社会主義の政党に見える。だから、共産党を嫌悪し、否定する論者(たいていは年寄りのようだ)が表マスコミにもネット世界にも溢れているのに、少々あきれている。
いったい、彼らは何を恐れてあれほど共産党叩きに走るのだろう。あるいは、どういう利益があって、そのような行動を取るのか。それらの論者の中にも、その一点を除けば立派で有益な言論活動をしている人も多いので、このことは残念でならない。
もちろん、共産主義者が資本家の援助を受けているとか、共産党は保守政権の補完勢力であり、協力者だとかいう説も耳タコである。ならば、それでいいではないか。そういう論を為す者は、たいてい、本当の革命など望んではいないのだから。本当の革命には共産主義も何も要らない。ただ「統制された暴力」が必要なだけだ。
むしろ、今の日本には、田母神支持者の存在が暗示するような、「右翼革命」の危険性の方がはるかに大きいだろう。今の格差社会と貧困に苦しむ若者の中には、新しいヒトラーの出現を待ち望んでいる潜在的な層がかなりな数に上っているはずだ。
今の日本は危機にある、と私は考えている。それは、民主主義の崩壊、という危機である。なかんずく、議会制民主主義の崩壊である。
議会制民主主義にとって絶対に必要なのが、健全な野党の存在である。それが存在しないことをファシズムと言う。
ならば、今の国会にそういう野党は存在するか。
民主党?
維新の会?
みんなの党?
ほぼ完全な大政翼賛会状態ではないか。わずかに、共産党だけが、真の野党らしき存在感を持っている、と私には見える。それは誤りだろうか?
(以下引用)
”一本化”という分断工作
2014-02-11 23:46:37NEW !
テーマ:日蒙開拓団
ファシズムは、”弱い者いじめ”から始まる。
外国人差別を煽った後は、共産党の排除という定番である。
今回の都知事選では、「勝てる候補」「一本化」の名のもとに”分断”戦略が実行された。
この工作には、鎌田だの宮台だのが加わっていた。市民派と思われたブロガーもだ。
細川と小泉を担ぎ出し、盛んに「宇都宮では勝てない」「脱原発なら細川でなければ」と宣伝した。
だが、細川が「脱原発」だという「宣伝」はあったが「根拠」はひとつもなかった。
そもそも、一本化するには時機を逸しており、実務上不可能だったと動画で解説しておきながら、その舌の根も乾かないうちに宮台は、「”居場所”を求める共産党のせいで一本化できなかった」などと述べた。
この動画は細川翼賛カルトたちが拡散させていたが、こんな矛盾があるのに平気で拡散させ、「やっぱり共産党は…」とか、「彼らが”脱原発”なんてウソだ」とか、盛んに囁いていたのだ。
この手口はネトウヨによく見られる。
言うことが「金太郎あめ」になるところもそっくりだった。
さらにのけぞるのは、宮台らが、「保守が加わらなければ脱原発はできない」などと述べ、
「歴史の法則」だったか「歴史の事実」だったか、共産党の「歴史的使命」「歴史の法則」そっくりの「ユダヤ」な言い回しが用いられたことだ。
「保守」といえば、アメリカや東電に買収されているポチどもである。いわば、「敵」の手下だ。
そいつらを「脱原発候補」として勝たせれば、「脱原発」ができるなんてことがあるのだろうか?
それのどこが「歴史の事実」なんだろうか?
今回、この「一本化」騒動で、改めてだれが市民の敵か、スパイかということが明らかになった。
これは極めて重要な事実である。
「真田の戦略」というのがある。
秀吉亡き後、真田家は豊臣方につくか、徳川方につくかの正念場を迎えた。
このときに兄の信之は徳川へ、弟と父は豊臣へと別れて生き残りを図った話である。
しかし、このような例は真田に限らず、ごくふつうにあり、商売人だって対立しているAとBの双方に媚を売って、どっちが勝っても商売が続けられるように、一族のだれかは生き残れるようにしている。
「リスクの分散」というやつである。
よって、「敵」は左翼にも右翼にも自分の身内を潜り込ませているし、原発推進にも、反原発にも、自分の兵隊を潜り込ませているものと思われる。
資金もコネもあり、「敵」側の情報もはいってくるわけだから、実績を上げてのし上がってくる。
しばらくすると、どの組織、どの派閥も、乗っ取られているか、影響力の及ぶようになっている。
そういうことだから、幹部クラスほど信用できない。
活躍し、目立っているやつほど信用できない。
ところが、一般人は逆に考えがちのようだ。
左翼で目立って、がんばっていたら「ミスター左翼」だと思い込んでしまう。
「脱原発」で目立って頑張っていれば、「ミスター脱原発」だと思い込む。
浅はかである…
だから、「見た目」で決めつけてはいけない。
言動が一致しているか、事実と主張が一致しているかを見なければいけない。
あべなどは、きょうもウソをついていたそうである…
今回のように、初めから「一本化」がムリなのに、散々わめいたあげくに、「一本化できないのは共産党のせいだ」とネガキャンして回ってる場合は、すぐに気づかなければいけないだろう。
ところが、どうも「一本化」にあらぬ夢、幻想を抱いているかのような人々が少なからずいた。
振り込め詐欺と同じ手口でやってきているのに、どうしてわからないのか、私にはそれが不思議である。
小泉は早々にツイッターも閉じたのだそうだ。
だいたい本人がつぶやいているという保証もない。
すでに記事にしたように”負けたら大変”詐欺だったのである。
そして、舛添当選で、やたらとがっかりしている…「負け」たと…
猪瀬が、舛添に変わっただけのことが、どうして「負け」なのだろう?
「不正選挙」が言われているというのに…
また、選挙で勝っても、公約は守られないことが常態化しているというのに…
選挙に「勝った」ところで、なにひとつ確実なものがない。
み~んな根拠のない”思い込み”を信じて「一本化~」と寝言を言っていたのだ。
終わってみれば、この「一本化」騒動で、「脱原発」が分断された事実だけが残った。
これが分断工作だったことは、明らかではないのかな?
選挙が終わって、不正選挙の新たなネタが出て、医者も不正に関わっているという話もでてきている。
選挙が終わったから、もう「一本化」でもめる材料もない。
「負け」どころか、いまこそ舛添リコールへ向けて総攻撃をかけるタイミングではないか…
選挙では、候補乱立で分断されるが、リコールなら一致して力を集中できる。
ムリして「ひとつ」にする必要がない。しなくても「ひとつ」になる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、かかってるお医者さん大丈夫かな~、こんなことしてるんだよ~」
こんな感じでじわじわと、とんでもない”事実”を広めるチャンスではないだろうか。
「勝てる候補」の前に、「公約が実行される」状況づくりが先であろう。
そうでなければ、勝ったところで無意味である。無意味な「勝ち負け」にこだわり、分裂し、一喜一憂…
あまりにも愚かではないのか?
「勝ち負け」にこだわること、だれかを「応援」すること、それがそもそもの大間違いなのである。
選挙権は裁判官のようにふるってこそ、主権者の実権として機能する。
選手や観客が審判を兼ねているのが、いまの選挙だ。だからデタラメになる。
選挙運動をする人は、その選挙において選挙権を行使してはいけない。
それこそが「不正」にほかならない。
このような制度設計の段階から「不正」が織り込まれてしまっていることが一番の問題だ。
こんなことになるのは、人々が次のように考えているからだ。
「民衆が政治家を選ぶから、民主主義」…
これは、絶対王政などと比較すればそうだというだけで、大間違いである。
前にも述べた。そもそも初めは「くじびき」だったのだと…
正しくは…
「民衆が、政治や政治家を監視するから民主主義」…
…なのである。
だから、政治家を「応援」したり、仲良くなってしまえば、それは「不正」である。
人々は、一生懸命「不正」を「民主主義」と思って実践しているわけだ。
日本が民主国家にならなくて当然であろう。
政治家をきちんと監視して、背任行為には直ちに解任して、民衆が主権者であることを思い知らせるのは、選挙権よりもリコール権の方が重要である。
公約違反が行われればただちにリコールされるということでなければ、民衆が舐められる。
公約違反をしても次の選挙でまた当選してしまう状況で、だれが公約など守るであろうか?
公約を守らないとわかっている選挙に意味はあるのか?
そんな選挙で「勝った」「負けた」ことに、なんの意味があるのか?
意味のないことで、一喜一憂することほどバカバカしいことはない。、
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