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徽宗皇帝のブログ

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あの「逆コース」から日本の民主主義崩壊は始まった
「高知新聞」から転載。記事は「晴耕雨読」にも転載されているが、前半に余計な部分がくっつけられているから、元記事を転載した。
高知新聞は素晴らしい仕事をした。ぜひ、多くの日本国民に読んでほしい記事である。特に注目してほしいのが、次の二箇所。

(注)=戒能通孝・東京都立大教授(故人)は1956年3月16日の内閣委員会で、主に以下の数点を理由に憲法改正論議にくぎを刺している。
 (1)内閣は行政機関であり、憲法の忠実な執行者でなければならない。内閣には元来、憲法に対する批判の権限がない。
 (2)国務大臣は憲法擁護の義務を負う。その者が憲法を非難、批判するのは論理矛盾であり、間違い。
 (3)基本的人権、つまり法律によって制限できない思想、言論、表現、結社の自由を認めないと、政治体制の決定権が国民に存在しないことになる。これらに制限を加えてはならない。
 (4)不戦は日本国憲法の基本。これに変更を加えることは、憲法改正にとどまらず、(体制の)変革だ。


【有沢広巳氏(高知県出身の経済学者。戦前、治安維持法違反で身柄拘束)】
 「世界情勢に明るい人とか、日本の国のことをよく知っている人々は戦争を起こしたら、大変だということを考えておりましたし、言ったもんですけれども。そういう人々は全部、国の方針に反するアカだ、容共論者だというふうになって、弾圧されていったわけです」
 「結局、何かものを言う人は、みな国策に迎合したことしか言わなくなって、あたかもそれが、国民(全体)の声のようになっていった。だんだん民主主義の権利を狭める、言論の自由、思想の自由を狭める。そういう小さな態勢でも、一歩を譲りますと、結局百歩を譲らなければならなくなると思うんで、一歩のうちにですね、この民主主義は守らなければならないと思うんです」


(以下引用)

2013年8月13日朝刊
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A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」


 旧日本陸軍の荒木貞夫大将ら4人のA級戦犯(いずれも故人)が自らの戦争責任などについて語ったラジオ番組の音源が、このほど見つかった。番組の中で4人は「敗戦はわれわれの責任ではない」「戦争中にあったことをいつまでもグズグズ言うのは間違いだ」などと述べている。番組のプロデューサーだった水野繁さん(92)=奈良市=は高知新聞の取材に「憲法改正を望むなど4人の姿勢は、今の安倍(晋三)内閣に相通じる点がある。国民の置かれていた状況が戦前と同じになっていないか、危惧している」と語った。


 【写真】ラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」のプロデューサーを務めた水野繁さん。「民主主義にとって大切なものは何か考えてほしかった」(大阪市北区)


 番組は「マイクの広場 A級戦犯」で、約30分間。関東地方をエリアとするラジオ局・文化放送(東京)が1955年に録音し、56年4月に放送した。音源は最近、水野さんが知人から託された。


 番組では荒木氏のほか、橋本欣五郎氏(元陸軍大佐)、賀屋興宣氏(開戦時の大蔵大臣)、鈴木貞一氏(元陸軍中将)の4人(いずれも判決は終身刑、それぞれ55年6~9月に仮釈放)が取材に応じ、私見を述べている。


 橋本氏は、日本の敗戦を国民に謝罪すると述べる一方、「外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」と語っている。


 賀屋氏は「敗戦はわれわれの責任じゃない。けしからんと言って、(A級戦犯に向かって)憤慨するのは少し筋違いじゃないか」と発言。鈴木氏は「世論が(戦争反対の方向に)はっきりしていないから(戦争は)起こっている」とし、当時の日本の指導者層に責任はなかった、と話している。


 一方、A級戦犯への批判的な意見として、広島市の被爆女性、治安維持法違反で身柄を拘束されたこともある高知県出身の経済学者、故有沢広巳氏らの声も収録されている。


 文化放送によると、「マイクの広場」は50年代に放送されていた。水野さんによると、主にニュースの背景を探る内容が放送されていたという。


  ◆A級戦犯とは
 第2次世界大戦時、日本の指導者的な立場にいて「平和に対する罪」を犯したとされる人々。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって対象者が選定され、100人以上が逮捕された。東条英機元首相ら28人が極東国際軍事裁判(東京裁判)で審理され、病死者や免訴者3人を除く25人全員に有罪判決が言い渡された。東条元首相ら7人は絞首刑の判決、残る18人は終身刑・有期刑だった。
 1950~56年にかけ、終身刑・有期刑のうち、獄中で病死した人などを除く13人が仮釈放された。その後、閣僚を務めるなど政界に進出した人もいた。
 「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」に問われた人はBC級戦犯と呼ばれ、約5700人が起訴されたとの資料がある。900人以上が死刑になった。

 第2次世界大戦中、日本で指導的な立場にあった人たちは、戦後間もない時期に何を考えていたのか。それを知る貴重なラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」(文化放送制作、1956年4月放送)の音源が見つかった。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として裁かれた4人の男性はそれぞれに自らの責任を否定し、「敗戦」と認めず、戦争放棄を定めた現憲法の改正などを求めていた。この番組から何を読み取ることができるのか。番組制作者や識者に聞いた。あと2日で今年も「8月15日」がやってくる。


元プロデューサー・水野繁さん 右傾化に危機感じ制作 民主主義考える契機に


 ラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」のプロデューサーを務めた水野繁さん(92)=奈良市=は、なぜこの番組を制作しようと考えたのか。制作から半世紀以上がすぎた今、番組を聞き直して何を思っただろうか。


 ―「A級戦犯」を取材しようと考えた理由は、どこにあったのでしょう。


 「企画を練り始めた(1953年)ころ、A級戦犯の釈放の動きがありましたが、彼らを犯罪人ではなく、名誉ある日本のために尽くした人とする傾向が強くなっていました。多くの政治家がそういう方向で活動し、その政治家たちが憲法改正を掲げる。民主主義を否定する空気です。こりゃ、まずいんじゃないか、と」


 「その当時、右派的な人たちはこぞって、『もとの教育勅語が必要だ』『(戦後制定された日本国憲法とは別の)新しい憲法が必要だ』と言いだして。政治の世界でそういうことが広がっていたわけです」


 ―A級戦犯の肉声にこだわり、放送する意義は。


 「ラジオを聞いた人たちがどう思うか、投げ掛けたかった。それに尽きます。A級戦犯の声をきちんと出し、(それに批判的な)有沢(広巳)さんらの声も紹介しました。民主主義について、具体的に何が大切かを考えてもらいたかったからです」


 ―番組では「民主主義」にこだわっていますね。


 「民主主義が実現していれば、言いたいことが言えるし、最低限の生活が保障できる社会になると考えています。一人一人が相手を大切にする、基本的人権を尊重するということを実現したかった、と」


 ―取材時、A級戦犯の様子は。


 「どなたも確信を持っているので、悪びれた様子はありませんでした。『自分の言いたいことを放送してくれるならそれでいい』と嫌がらずに応じてくれた」


 ―あの番組の制作者として、今の日本の状況をどう見ますか。


 「今、目の前には、戦争したいという人がうようよしています。そして、権力を持っています。国民の置かれている状況が戦前と同じようになっているんじゃないか、と思います」


 ―昨年末の安倍政権発足後、憲法改正に向けた動きも強まっています。 


 「(憲法調査会を内閣につくるための法案が審議されていた)1956年3月16日の内閣委員会で、公述人として出席した戒能通孝・東京都立大教授は『(憲法改正では)国民の主権の存在をどうするかの問題が第一に出てくる。主権の所在を移行させる憲法改正となると、これはもう改正ではない。革命なり反革命なりということになる』と述べています=注。安倍内閣も同じです。憲法改正を掲げることは、革命を企てているということにならないか。そういう懸念があります」


 ―番組制作から50年余りになります。聞き直して、どう思いましたか。


 「A級戦犯は昔のことじゃないかと、受け取る人もいると思います。何で今更、と。だけど、これは靖国(神社合祀)の問題にもつながるし、現在の憲法改正論にもつながっている。A級戦犯の『教育勅語に戻ろう』『昔の(明治)憲法の方がいいんだ』という発言は、現在の政権の動きと相通じるものがあります。A級戦犯の人たちが当時言っていたことが、今は、一般の人たちにも浸透してきたんじゃないか、と」


 (注)=戒能通孝・東京都立大教授(故人)は1956年3月16日の内閣委員会で、主に以下の数点を理由に憲法改正論議にくぎを刺している。
 (1)内閣は行政機関であり、憲法の忠実な執行者でなければならない。内閣には元来、憲法に対する批判の権限がない。
 (2)国務大臣は憲法擁護の義務を負う。その者が憲法を非難、批判するのは論理矛盾であり、間違い。
 (3)基本的人権、つまり法律によって制限できない思想、言論、表現、結社の自由を認めないと、政治体制の決定権が国民に存在しないことになる。これらに制限を加えてはならない。
 (4)不戦は日本国憲法の基本。これに変更を加えることは、憲法改正にとどまらず、(体制の)変革だ。

  《制作の経緯》


 「マイクの広場 A級戦犯」のプロデューサー、水野繁さんによると、取材は1953年7月に始まった。「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」の衆院可決に合わせての企画だった。


 制作は文化放送教養部が担当。同年8月にA級戦犯19人(逮捕後の不起訴を含む)をリストアップ。その全員に取材を申し込んだ。


 その結果、15人が内閣情報調査室を通して断ったり、病気を理由に親族が断ったりした。取材に応じたのは、荒木貞夫氏ら4人。放送された番組は約30分間だが、収録は1人2~3時間に及んだという。


 56年4月の放送後、大きな反響を呼び、当時再放送もされた。
    ◇
 水野さんの資料によると、取材を断ったA級戦犯と理由は次の通り。(敬称略)
 【病気を理由に親族が断った】岡敬純、畑俊六、嶋田繁太郎、大島浩、佐藤賢了、星野直樹
 【内閣情報調査室が断った】平沼騏一郎、南次郎、岸信介、木戸幸一、児玉誉士夫、正力松太郎、鮎川義介、真崎甚三郎、天羽英二




A級戦犯の言葉 今に影 57年前のラジオ音源 戦争責任を語る


 ラジオ番組「マイクの広場 A級戦犯」はナレーションを挟みながら、約30分間続く。A級戦犯の言い分はどんな内容だったのか。それに疑義を唱えた人たちは何を語っていたのか。音声の一部を掲載する。(発言趣旨を変えない範囲で、語尾など一部表現の修正や省略をほどこしている箇所があります)


 【写真】1955(昭和30)年9月17日、東京裁判で終身刑を受けて服役していた橋本欣五郎元陸軍大佐、賀屋興宣元蔵相、鈴木貞一元企画院総裁の3氏が巣鴨プリズンを出所した。A級戦犯は裁判に関与した11カ国の同意を得て、翌年までに全員赦免された


■戦争責任■  けしからんというのは筋違いだ


【橋本欣五郎氏(陸軍大佐、大政翼賛会常任総務)】
 「戦争をやるべく大いに宣伝をしたということは事実ですよ。そうして、これが負けたということは誠に、僕は国民に相済まんと思っておるですよ。そりゃ、はっきりしとりますよ。けれども、外国に向かって相済まないとは、一つも思っておらない」

 橋本欣五郎(1890~1957年) 陸軍大佐。天皇帰一主義の超国家主義体制を実現させるとして、三月事件と十月事件(いずれも1931年)という2件のクーデター未遂事件を起こす。大政翼賛会では、壮年団本部長を務めた。

【賀屋興宣(おきのり)氏(開戦時の大蔵大臣)】
 「敗戦は誰の責任か? われわれの責任じゃない。それをだな、われわれに(対し)けしからんと言って憤慨するのは少し筋違いじゃないか。お前、自分の責任が大いにその原因してるぞ」
 「あらゆる責任は、いわゆる軍閥が主です。財閥や官僚というものは、戦争を起こすことについては、非常に力が薄いです。むしろ反対の者が相当にあった。主たるところは軍人の一部です」


 賀屋興宣(1889~1977年) 太平洋戦争開戦時の東条英機内閣で大蔵大臣を務める。中国資源の収奪や大東亜共栄圏を中心とするブロック経済を視野に入れ、軍事優先の予算を編成した。戦後は、池田勇人内閣で法相を務めた。


【鈴木貞一氏(陸軍中将、戦時中は内閣顧問)】
 「戦争責任を考える上については、やっぱり国民のね、政治的な、その何と言うか、責任と言うかね。もし、国民が戦争を本当に欲しないというそれが、政治の上に強く反映しておれば、そうできないわけなんだ。だから、僕は政治家の力が足りないと。足りなかったと。もしも、戦争が誤りであるとすればだよ、その誤りを直すだけの政治の力が足りなかったと」
 「政治の力が足りないということは、何かと言うと、国民の政治力が、すなわち、政治家は一人で立っているんじゃないわけだからね。国民の基盤の上に立っているんだから。今日の言葉で言うならば、世論というものがだね、本当に、はっきりしていないことから起こっていると思うんだな」
 「当時の堂々たる政治家が、極端に言うなら、軍に頭を下げるようなことをやっておった。そういうことでは、軍人を責めることが、むしろ僕は無理だと思うんだ」


 鈴木貞一(1888~1989年) 陸軍中将。第2次近衛文麿内閣で国務相兼企画院総裁を務める。1941年の御前会議で、日本の経済力と軍事力を分析した結果として、天皇に対し「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上(対米開戦は)有利であると確信いたします」と進言した。100歳まで生き、A級戦犯最後の生き残りと言われた。


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■敗戦か終戦か■  イチかバチか戦争するのが普通の人


【荒木貞夫氏(陸軍大将)】
 「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」
 「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」
 「(対米開戦をしなければ)ジリ貧と言った東条(英機)君の言葉も、必ずしも一人を責めることはできんじゃないかと。どうせしなびてしまうようにさせられるなら、目の黒いうちにイチかバチか(戦争を)しようというのは、普通の人の頭じゃないかと、こう、私は言いたいのです」
 「戦争中にあったことは、いつまでもグズグズ言うのは、これは間違いだ」
 「逆コース(1950年代前半の日本の再軍備などを指す)なら逆コースでよろしい、と。いま端的に言うなら、憲法問題。(改正反対などと)グズグズ何か言うなら(明治政府の)五箇条のご誓文でいいじゃないかと」

 荒木貞夫(1877~1966年) 陸軍大将。陸軍大臣、文部大臣も務める。天皇親政のもとで、国家改造を進めようとした「皇道派」の首領格。文相時代は「皇道教育」を軸に、軍国主義教育を推し進めた。


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■言論の自由■  自らが自らを縛っている格好に


 【鈴木貞一氏】
 (国民に対する言論弾圧について問われ)「治安維持法も総動員法も議会でやるんだな。議会でやるんだから、その政治力が『そういうもんはいかん』ということであればだね、(戦時関連の立法は)できないわけなんだな。そういうものを作ったということは、自分(政治家)がそれを承認してだ、そういうものに服するということにしたんだから。自らが自らを縛っている格好になっているんだよ」



■戦犯の余生■  いつまでも責めるべきじゃない


【清瀬一郎氏(東京裁判の特別弁護人)】
 「過去における失敗をいつまでも責めるべきじゃない、と思っております。(山口県の)下関へ速く行く汽車は、ひっくり返したら、青森へ速く行けるんですから。あれだけ力を持っている人(A級戦犯)がいっぺん戦犯になったからと言って、ぐにゃーとしてしまわないで、新たな方向へ残年を、残っておる生涯をお使いになることは、私は賛成しておるんです」



■戦犯への目線■  戦争起こしていいなんて人間じゃない


【原子爆弾で被爆した広島の匿名女性。年齢も伏せられている。】
 「(被爆直後は)鏡のかけらで、私の顔をのぞいて、本当にもう、これが自分の顔だったかって信じられないくらい。うみや血の塊が乾いて、顔全体が噴火口の塊だっていうくらいだったんですけど」
 「母がいわゆる原爆症だと思うんですけど、何か下痢がすごく続いて、血を吐いたり、歯ぐきから(血を)出したり、毛が抜けたりして(少し前)息を引き取ったんです。母の、戦争がなかったらって繰り返し繰り返し言ったその言葉を思うにつけても、私のこの醜い身体と心の痛手を残した戦争を、もう二度と絶対に起こさないでほしい」
 「これからまた戦争を起こしてもいいなんて考える人があったならば、この私の顔、体をその人に見せてやりたいと思います。私のこの体を見て、目を見て、そのことが言えるんだったら、そのような人は、人間じゃ絶対にあり得ない」



■戦犯への目線■  民主主義 一歩譲ると結局百歩を


【有沢広巳氏(高知県出身の経済学者。戦前、治安維持法違反で身柄拘束)】
 「世界情勢に明るい人とか、日本の国のことをよく知っている人々は戦争を起こしたら、大変だということを考えておりましたし、言ったもんですけれども。そういう人々は全部、国の方針に反するアカだ、容共論者だというふうになって、弾圧されていったわけです」
 「結局、何かものを言う人は、みな国策に迎合したことしか言わなくなって、あたかもそれが、国民(全体)の声のようになっていった。だんだん民主主義の権利を狭める、言論の自由、思想の自由を狭める。そういう小さな態勢でも、一歩を譲りますと、結局百歩を譲らなければならなくなると思うんで、一歩のうちにですね、この民主主義は守らなければならないと思うんです」


 有沢広巳(1896~1988年) 高知県出身の経済学者・統計学者。東京大学名誉教授。反ファシズム、反戦主義を呼びかける結社支持を理由に38年、治安維持法違反で起訴され、東大を追われる。戦後は東大に復帰し、原子力委員会委員長代理を務めるなど国の経済政策やエネルギー政策に関わった。






  《小幡尚・高知大准教授に聞く》 詭弁と欺瞞 被害顧みず



 A級戦犯4人の発言を聞くと、彼らの中で戦争の被害がなかったことになっている。終戦からインタビューを受けるまでの間に、原爆投下や東京大空襲、各地の空襲など国民が知らなかった被害状況が明るみに出た。東京裁判では、連合国軍の行為が不問にされるなど評価は分かれるが、満州事変が謀略だったことなど旧日本軍による侵略の実相も分かった。4人は、そうした事実をごまかすどころか、あたかもなかったかのように完全に目をそらし、発言していることが印象に残った。



 詭弁(きべん)と欺瞞(ぎまん)と言っていいと思う。


 その欺瞞には、自己欺瞞も含まれる。1945年の日本軍の負け方は、ぎりぎりで負けたという状況ではないことは軍人であれば分かっているはず。「日本は負けてない」というのは単なる言い回しにすぎない。


 2011年3月の東京電力福島第1原発の事故後、政府も東電も「健康に直ちに影響はない」など他人も自分も欺く話法を使ってきた。そうして危機から目をそらし、さらに危機を増幅させてきた。


 東京大学東洋文化研究所の安富歩教授は「東大話法」という表現を用いて、この点を突いている。A級戦犯4人の発言は、「東大話法」にそのまま当てはまると感じた。


 番組が放送された1956年の流行語の一つは、政府の経済白書に記載された「もはや戦後ではない」という言葉だった。A級戦犯だけでなく、政府も戦争の総括をしていないことが分かる。


 昭和の時代に入ると、陸軍の中で明らかな作戦ミスをした人がその後、出世するということが起き始める。戦前からの軍のそういう無責任な体制が、戦後も続いているのではないか。問題を直視しないのはエリートの特徴と言いたいところだが、原発事故後の社会状況を見る限り、残念ながら、今の日本全体に広がってしまっている。


 私自身は、4人の発言から直接には「右傾化」の危機はそこまで感じなかった。日本社会の中にある、問題を直視しないという伏流が強くなったときに、世の中が右傾化したように見えるのではないかと読み取れた。問題を直視しないという伏流は、戦時中からずっとあり、原発事故の危機で流れが大きくなったのではないか。


 戦争を総括してこなかったA級戦犯。原発事故を直視していない政府。両者には共通項がある。問題をどう総括し、どう出発していくか。日本は今、そこが問われている。


 【写真】A級戦犯の発言内容を分析する小幡尚・高知大准教授。「今の日本社会に続く、問題や危機を直視しない姿勢が発言から読み取れる」(高知大学朝倉キャンパス)

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