忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

ソースタイン・ヴェブレンの経済学思想
ソースタイン(下記ウィキ記事では「ソーステイン」)・ヴェブレンの経済学思想は、私が漠然と考えていた経済学思想に近い。
マルクスのような「階級闘争」という、社会の半数を反発させる過激思想とは異なり、いわば、「穏健社会主義」思想だと言える。しかし、資本主義の自己破産的性格を見事に見抜いている。
  • ヴェブレンは『営利企業の理論』(1904年)において、現代の産業を二分して分析している。すなわち、物を作る目的の産業(Industry)と、金儲けの手段としての営利企業(Business)との二分である。ビジネスは産業を推進せずに、むしろ産業を侵食していくというのが、ヴェブレンの資本主義論である。
これは、彼以前の「空想的社会主義」との相違であり、空想的社会主義の時代には、「金融は無(カネという妖怪的存在)から資産(利子)を生み出すため、社会全体のカネが延々とバブル化し、富裕階級と貧困階級の壁を永続的にする」ことがまだ見抜かれていなかったためだろう。

参考までに「阿修羅」所載の「櫻井ジャーナル」記事の一節を青字にして載せる。金融業がいかに吸血鬼であり、国家を破産させるかが分かるだろう。

破綻した国の国債を安値で買いあさり、満額で買い取らせるというのが「ハゲタカ・ファンド」のやり口。ウクライナにはIMFがカネを貸しているが、そのカネでファンドの要求通りに支払うことができる。債権者になったIMFは債務者である破綻国の政府に対して緊縮財政を要求、庶民へ回るカネを減らさせる。規制緩和や私有化の促進で国の資産を巨大資本に叩き売らせ、大儲けさせてきた。

ーーーーーー

ヴェブレンの

社会資本は決して利潤追求の対象として市場の条件によって左右されてはならない

という思想は、資本主義の害悪性への批判から生じたものだろうが、ソ連による国家管理経済の失敗により、この主張はいわば「破産」したと言える。しかし、それは「いかにして理想を現実化するか」の技術的問題であり、理想自体の誤りとは断定できないだろう。社会主義は、はたして官僚支配政治と不可分か、単なる事例で判断するのではなく、理論的考察が必要である。

(以下引用)赤字化部分は徽宗による強調。

思想・業績

[編集]
Theory of the leisure class, 1924
  • ヴェブレンの、自分が生きた時代への批判は、マルクスとは異なった視点からの現代産業社会への分析となっている。
  • 1899年の最初の著作『有閑階級の理論(The Theory of the Leisure Class)』では、いわゆる「黄金時代」(Gilded Age)の富豪たちの生活様式が人類学の言葉で説明され、彼らの邸宅・贅沢な調度品とパーティー・豪華な衣装は、野蛮人たちのポトラッチ・羽根飾り・狩猟・祭祀と同列に見なされている。ヴェブレンの超然とした記述は、客観的で抑制されているだけ、皮肉を鋭く感じさせる。[独自研究?]この本が当時の読書界に反響をおこしたのは、『誇示的消費(衒示消費、Conspicuous Consumption)』『誇示的余暇(衒示余暇、Conspicuous Leisure)』『金銭的競争(Pecuniary Emulation)』『代行消費(Vicarious Consumption)』などの新奇で印象深い用語とともに、こうした特異な文体に負うところが大きい。さらにヴェブレンが「見せびらかし」と断じた奢侈や余暇は、悪趣味と怠惰の汚名をかぶり、アメリカであからさまには享受できなくなってしまった。
  • ヴェブレンは『営利企業の理論』(1904年)において、現代の産業を二分して分析している。すなわち、物を作る目的の産業(Industry)と、金儲けの手段としての営利企業(Business)との二分である。ビジネスは産業を推進せずに、むしろ産業を侵食していくというのが、ヴェブレンの資本主義論である。
  • 『技術者と価格体制』(1921年)では、さらに進んで技術者の集団(Technocrat)のソヴィエトによって、生産を統制すべきであると主張した。社会資本は決して利潤追求の対象として市場の条件によって左右されてはならない。社会資本の各部門は、専門的知見にもとづき管理されなければならない。このような具体的な提言は、ヴェブレンの抱いていた急進的な改革思想をもっともよくあらわす。さらに、後のアドルフ・バーリガーディナー・ミーンズによって採りあげられた「所有と経営の分離」の問題(1932年)が、すでにこの本で提出されている。
  • ヴェブレンは制度派経済学の創始者と呼ばれる。私的所有より「社会資本」を考慮し、営利企業は産業体制を管理し消費者に消費財を公正に分配する任務には適していないと考えた点において、彼の学説は公認の経済学者のそれとは隔絶していた。
  • ヴェブレンの知見は、大恐慌とアメリカでのケインズ学派の受容後に、再発見されたといった方がよい。最も早い時期(1936年)にヴェブレンを肯定的に紹介したのが、やはり異端の経済学者とみられていたホブスンであったことは興味深い。ヴェブレンの影響は、ジョン・ケネス・ガルブレイスなどに及んでいるが、まとまった学派をつくったとは言い難い。

拍手

PR

コメント

コメントを書く