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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

ネットの力に関する悲観主義と楽観主義
「阿修羅」が今のように「大衆居酒屋」ではなく、優雅な「高級クラブ」であった初期の頃の代表的論客である「あっしら」氏が、クロノスという馬鹿に「お前は評論するだけで世の中を変えるために現実的活動をしていない。俺はお前の影響で世の中を変えようと公務員になったが、その生き方を選んで損をした」という趣旨の阿呆な罵声を浴びせられて、それに誠実に答えながらもどこか気落ちしている様子である。
私は、このクロノスという男の発言内容が本当かどうかも分からないのだから、そうまともに取り合う必要は無いと思うのだが、人間というものはほめられると嬉しいし、けなされるとしょげるものだ。それは幾つになっても同じことである。だからあっしら氏の気持ちはよく分かる。私が自分のブログへのコメントをあまり読む習慣が無いのは、(いや、最近は、来れば読みますよ。あまり来ないけど)どうせほとんど悪口だろう、と最初から決め込んでいるからである。何しろ、打たれ弱い人間なので。(笑)

あっしら氏は自分の発言が他人に及ぼした影響を気にしているようだが、ネットでの自己表現は、単に「思ふこと言はざるは腹ふくるる業なり」だから外に出すだけのことであり、それで他人がどう思い、どう影響を受けるかは、それこそ読む人の自己責任だ、と私は考えている。それが無価値なもの、下らないものであれば、自然と誰も読まなくなるだけのことだ。
かと言って、他人への影響をまったく考えないというのも嘘になる。いや、誰も読まない秘密の日記ならともかく、私が公の前に自分の文章を出すのは、やはり誰かに読んでもらいたいからだ、というのが正直なところだ。それに、私のブログを読んでいる人はだいたいご承知のとおり、私は「できるだけ自分にも他人にも負担のない、楽な方法で社会改革をしたい」、と考える者なのである。

この「徽宗皇帝のブログ」は一日にだいたい100人から200人、最近は180人前後の人が読んでくれているようだ。べつに宣伝活動もしていないのに、これだけの数の人が読んでくれているだけで光栄である。もちろん、その中のすべてが私と波長が合うとは限らないだろうが、少なくとも、貴重な自分の時間を費やして、このブログを読んでくれることは有難いことである。
「あっしら」氏のように巨大掲示板で持説を述べる方が、社会的影響力は大きいだろう、とは思う。しかし、私のブログ程度の規模でも、同じような意見を何度も言っているうちに、社会にその意見が反映されるような気が、私にはするのである。
つまり、小さなブログであっても、それを読んだ人が納得できる意見があれば、その意見は読んだ人の中に残り、その人がまた自分のブログなどを通じ、あるいは知人との会話を通じて、その意見を表に出す、ということが生じてくるわけである。
6人ほどの人間をつないでいけば、世界中につながる、という面白い考えがある。どういう計算かは分からないが、ネットの場合ならば、たとえば一つのブログの読者が平均100人であれば、最初の発信者の考えが5つの転送を受けると1×100×100×100×100×100=10000000000、つまり100億人に伝わることになる。日本の中だけでいいなら、4回の転送で1億人に伝わるわけである。
もちろん、これはただの数学上の理屈であるが、可能性としては確かにあるわけだ。つまり、この世界のどこかで誰かの呟いた言葉が世界を変える、という可能性が、インターネットの誕生によって出てきたわけである。
これは実に面白い時代ではないか。
というわけで、私はネットの無力さに絶望するのは早い、と思っているし、ネット弾圧といかにして戦うかがこれからの最大の問題の一つだ、と思っているのである。
もちろん、何度も言うように、ネットの世界を表マスコミとどうつなぐか、ということが、現実の政治を変える上では大きな問題ではあるが、それは今は措いておこう。

なお、「つむじ風」ブログに引用された植草教授の言葉が、私が上に書いた内容に近いように思われるので、その前の「つむじ風」氏の言葉と共に、「引用2」として転載しておく。




(以下「阿修羅」より「あっしら」氏の発言を引用)


それで当然なのですが、主要メディアの劣化と腐敗がより深まっていくとともに、日本全体の混迷と分断も進んできたと思っています。
 論理やイメージではなく、リアル過ぎるとも言える3・11をぶつけられてさえ今回の結果ですから、少々のことでは抗うことができない流れとも言えるのでしょう。
 繰り言になりますが、300万人を超える国民が命を捨てたあの戦争の「敗戦責任」さえ問われずに済んだ国ですから、結局はそうなるのだろうと思ってはいたものの、やはり哀しみはまとわりつきます。
 学校教育・家庭内教育・メディアの情報操作などを通じて醸成される世界観や価値観に、風穴を開けることは実に困難であると理解しています。
 いちばん辛いのは、すでに風穴を開けられている方は私がことさら投稿する必要はなく、風穴が閉じていられる方は、私がいくら投稿しても開くことがないのだろうなと感じるときです。
 クロノスさん絡みになりますが、本気で、みんなを動かすとか、現実世界を変えると勢い込んで阿修羅に来ていれば、とっくに精神が崩壊していたに違いないと思っています。
 政党などは、本気で改革や革命を考えたところは現実の壁で崩壊してしまい、ちまちまと心地よい居場所を見つけ、所詮権力とは無関係と割り切り威勢のいい啖呵だけに存在意義を感じているようです。
 世の中の不正や矛盾に気づいたヒトは、いたたまれないのでしょうが、今は、奮い立つときではなく、じっくりと世界の様子を眺めその意味するところをゆっくり考えるときだと思っています。
 フライングで飛び出したヒトは、啖呵だけで終わるか、裏切りに嘆き悲しむかだと思っています。




(引用2「つむじ風」ブログより転載)



 これまでも既得権力の手段は、あらゆる手段を弄してきた。世界に目をやれば、自ずと分かるであろう。陰謀は数限り、際限がない。買収、恫喝、冤罪、そして、暗殺など日常茶飯事である。最後は、戦争まで行く。
 と言うわけであるから、覚醒とともに戦いは熾烈を極め、激化すると考えなければならない。その覚悟を元に、対策を練る必要がある。
 最後に勝つのは、覚醒である。最初に戻るが、極論すれば100%覚醒すれば、問題は無かろう。それは現実あり得ない。
 既得権力の人間は一握りである。そして、その取り巻きを全部合わせても少数である。その数は、1%に満たないのである。残り99%は洗脳により、目を眩まされている。そして、唯々諾々として、従っている。
 心根は同じである。
 つまり、
 今さえ良ければ、自分さえ良ければという、心根に根ざしている。それを今問われているのだと思われる。この試練は、個々の試練であり、全体の試練である。
 人間は、個性を抱いた全体の一部であろう。そして、地球は宇宙の中の個性ある惑星であるが、宇宙の一部であろう。それは孤立から、連帯への通過点と観れば、現時の事象を大局的に感得できよう。
 日本が連帯するとき、世界が連帯し、地球が一つの契機となるかもしれない。そんな気がしている昨今である。

【転載開始】

2012年12月21日 (金)

主権者国民逆襲キーワードは覚醒・大同団結・連帯
第二次安倍政権が発足することになるが、今回の選挙で壊滅的な打撃を受けた主権者国民勢力は、2013年夏の参院選に照準を合わせて、体制を再構築しなければならない。
主権者国民勢力が政権を奪還するための三つのキーワードは、
「覚醒」
「大同団結」
「連帯」
である。
「覚醒」とは、主権者国民の課題。
多くの主権者国民が「洗脳」状態にある。大きな理由は日本の腐敗したマスメディアが偏向した情報しか流さないことにある。

歪んだ情報が常に主権者国民に刷り込まれている。
メディアの歪みは2001年の小泉政権発足時から顕著になった。
2009年以降は、米国・検察権力・メディアが三位一体で日本の情報空間を占拠して汚染し続けてきた。
この影響で、主権者国民の多くが「洗脳」、「汚染」状態に置かれている。
日本政治を刷新するには、主権者国民が「覚醒」しなければならない。
今回総選挙で大勝した自民党が比例代表選で得た得票率は、全有権者の16.4%に過ぎない。
全有権者の16.4%の投票を得ただけで、衆議院480議席の定数のうち、294議席を占めたのだ。
自民党が国政を仕切る十分な正統性を持たないと言えるが、同時に主権者国民の2割の支持を得れば、政権を奪取することができるという意味では、大いなる希望の光を見出す事実でもある。
『ルネサンスとは何であったか』の著者塩野七生氏は、同書のなかでルネサンスについて次のように記述する。
http://goo.gl/f7nU7
「ルネサンスとは、一言で言えば、今までの自分に疑いを持つということですね。そこから始めて、あらゆることに疑いをもっていく。」
主権者国民は、あらゆることに疑いを持たなければならない。

あらゆることを疑って、もう一度、自分の目でものを見て、自分の頭でものを考える。

このプロセスを重視することによって、まったく違う現実が見えてくる。
これが「覚醒」だ。
政治のレベルは国民のレベルを超えて存在しない。日本政治を刷新するには、日本の主権者国民のレベルが日本政治を刷新するレベルに昇華する必要がある。
全員が覚醒するのは困難だろう。しかし、2割の国民が覚醒することは十分に可能だ。これを実現すること。
第二の「大同団結」は、「主権者国民の政治」実現を目指す政治勢力が大同団結すること。
特定のイデオロギーに縛られていては、主権者国民の支持を引き付けることはできない。
これまでの鎧を捨てて大同団結し、主権者国民の側に立つ新しい勢力を結集することが必要だ。
最大の敵は「党利党略」だ。
そして「我欲」も排除しなければならない。
自分が中心でなければならない人は大同団結にふさわしくない。
大同団結とは自分を捨てることでもある。
「無私の精神」こそ「大同団結」に必要不可欠なものだ。
西郷南洲翁遺訓に、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
との言葉がある。
私は為政者に求められる資質は、「無私の精神と徳の高さ」だと考えている。
この資質を備えた者が中心に位置しなければ「大同団結」は達成されないだろう。
「主権者国民の政治」の実現とは、「米国・官僚・大資本」という「既得権益の政治」を排除して、「主権者国民のための政治」を確立することである。
今回の選挙でも、この方針を提示した政治勢力は存在した。「未来」がその中心であった。さまざまな謀略によって、「未来」の議席数は激減させられたが、こんなことでくじけていては日本政治刷新など実現しようがない。
この瞬間から出直しを図り、必ず「主権者国民の政治」を確立しなければならない。
そのための「大同団結」こそ求められている。
三番目の「連帯」は、「主権者国民の政治」を確立するために、ネット上に「主権者国民メディア」を確立することだ。そのためには「連帯」が不可欠だ。
ここでも敵は「党利党略」である。「自分が中心」の人が多数存在してもまったく力にならない。
「連帯」のためには身を投げ出すことが必要だ。
マスメディアの威力は1000万人単位の情報伝達にある。
これに対抗するには、ネット上に100万人単位のメディアを創設することが必要だ。
「日本版アルジャジーラ」の創設だ。
すでに、ネット上には市民メディア構築の試みがいくつか存在する。
これらが「連帯」して、共通のプラットフォームを構築することが必要である。
この課題を解決するために、具体的な方法を現在検討中である。

【転載終了】





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