独裁体制の支持者など、権威に服従する人びとは一見従属的な立場に置かれているように見えるが、実は上からの命令に従うことで自分の欲求を充足できる治外法権的な自由を享受しており、主観的にはある種の解放感を味わっている可能性が高い。
という分析は、私もおそらくそうだろうと思う。「治外法権的自由」というのは、今後ファシズムを考察する場合の重要な概念になるのではないか。人がネトウヨになる心理はまさにそれだろう。安部総統傘下の治外法権的自由が彼らをあの愚行に突進させるのである。
(以下引用)
以上の3点のうちファシズムの仕組みを理解する上でとくに重要なのは、2番目の「責任感の麻痺」である。
監獄実験やミルグラム実験の結果が示しているように、権威への服従は人びとを道具的状態、自分を命令の代行者と見なすような意識に陥れ、自分自身の行動に責任を感じなくさせる働きをもっている。
たとえば1938年11月にナチス政権下のドイツで発生した反ユダヤ主義暴動、いわゆる「水晶の夜」は、ユダヤ人への報復行動を呼びかけるゲッベルス宣伝相の演説が引き金になったが、権力の後ろ盾のもとでは好き放題に暴れまわっても罰せられないという状況が、多数のナチ党員や突撃隊員を暴力的な行動に駆り立てたことは明らかだ。
ヘイトスピーチを考えるヒントにもなる
ファシズムは一般に抑圧的な性格をもつものと考えられている。ナチスが暴力で人びとの自由を抑圧し、強固な独裁体制を築いたことはたしかである。
だがファシズムをもっぱら抑圧的なものと理解してしまうと、それがいまなお人びとを惹きつける魅力をもっており、状況しだいでいつ社会全体に拡大してもおかしくないことが見過ごされてしまう。
何よりも重要なのは、ファシズムに加わった人びとの内面的な動機、彼らがそこにどんな魅力を見出していたのかを理解することである。同じ制服を着て指導者に忠誠を誓い、命令に従って敵を攻撃するだけで、人はたやすく解放感や高揚感を味わうことができる。
そこではどんなに暴力的な行動に出ようとも、上からの命令なので自分の責任が問われることはない。この「責任からの解放」というべき単純な仕組みにこそ、ファシズムの危険な感化力があるといってよい。
これと同じような仕組みは、たとえば近年わが国で広がりを見せている排外主義運動の参加者の間にも見出すことができる。在日コリアンへの憎悪を煽るヘイトスピーチを行った加害者は、それが批判を浴びると「日本のためと思ってやった」といって自己正当化をはかることが多い。
彼らの差別的な言動も、権威への服従がもたらす「責任からの解放」の産物である。そこにはマジョリティの権威を傘に着て社会的少数派を攻撃し、日頃の鬱憤を晴らそうとする卑小なファシストの姿が垣間見える。
現代の民主主義社会で暮らす私たちにとっても、ファシズムはけっして遠い過去の話ではなく、民主主義が「多数派の支配」と理解されるような社会では、その危険性はむしろ高まっているというべきだろう。
独裁体制の支持者など、権威に服従する人びとは一見従属的な立場に置かれているように見えるが、実は上からの命令に従うことで自分の欲求を充足できる治外法権的な自由を享受しており、主観的にはある種の解放感を味わっている可能性が高い。
「ファシズムの体験学習」の最大の狙いも、受講生にそのような感情を体験させることを通じて、ファシズムが参加者にとって胸躍る経験でもありうること、それだけに危険な感化力を発揮しうることを理解してもらう点にあるのである。
コメント