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徽宗皇帝のブログ

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ロードス島はどこか
「反戦な家づくり」から抜粋転載。
明月さん、こと山岸飛鳥さんの心労がよく分かる文章だが、もう少し気楽に生きないと早死にしますよ、と言いたくなる。誰でも死ぬまでは生きられるというのがこの最悪の社会の特典ではないか。まあ、死ぬまで税金その他で絞られるし、死んでも「死亡税」がかかることになりそうなのがこの自民政権だが。(笑)
文中の「ロードス島」云々がどういう意味か引っかかったので、ヤフー知恵袋で調べてみた。確か「ここがロードス島だ。ここで飛べ」という言葉だったという記憶だけはあったが、その意味が分からなかったのである。ヘーゲルやマルクスが自著の中で使った意味については分からない。おそらく、「口先で行動するより、今ここで行動しようじゃないか」という意味ではないか。山岸さんの言うのはおそらくそういう意味だと思う。
そして、その行動(政治のプロと市民活動の融合)の結果残されたのが、途方も無い徒労感であったわけだ。もちろん、それは有意義な、立派な活動だったと思うが、私のような怠け者から見ると、あまりにも自己消耗が激しい活動は、永続性も無いし、広がりを持つことも無いという気がする。私のように、ブログ上で好き勝手を言っているのは楽でもあるし、またまったく無意義だとも思わないのである。まあ、「俺はロードス島では大跳躍をしたぞ」と法螺を吹いている男のようなものだが。
なお、山岸さんの活動内容については実は「中略」部分にあるのだが、その部分は割愛した。その方が、今の日本の状況についての山岸さんの分析が分かりやすくなると思ったからである。その分析は頷かせるものがある。「必要なのは現代の米騒動」と言いたくなる気持ちも良く分かる。ただ問題は、「米騒動」をそのまま起こしたら、それは犯罪でしかないことであり、どのような形で「米騒動」を起こすかが大事ではないか、ということである。私の考えでは、「経団連」傘下企業への不買運動、アフラックなどの「外資」企業へのボイコット運動などが現代の穏健な「米騒動」に当たるのではないかと思う。まずは「経団連」傘下企業の名を白日の下に引きずり出すことである。(これは経団連の役員である中核企業以外は明らかにされていないのである。)



(以下引用)



必要なのは現代の米騒動

2012年12月16日の夜から続く慢性疲労は、どうやら軽い鬱病のように私にベッタリとはりついて離れません。

仕事に集中している瞬間と、畑でのまったりとしたひととき以外、ずっと心に鉛を飲み込んだような重さを感じています。

原発が爆発したのに自民党が圧勝・・・・正直を言えばこの現実をいまだに受け止め切れていない。
もちろん、頭では何故そうなるのかある程度理解しているつもりだが、それでもなおあの時の「なんで・・」という気持ちから抜け出せない。

(中略)

が、それにしても だ。
ひしひしと感じるのは、どんどん進行している「絶望」の蔓延。その裏返しのファシズムの胎動。
2012.12.16に感じた通りに、世の中が進行している。いや、それ以上にすさまじいスピードで、絶望とファシズムは表裏一体で膨張し続けている。いつパンデミックが起きてもおかしくない。

こんな1年半であったおかげで、色んなことを考えることにはなった。
民主主義って何だ。世代間格差のこと。一番の課題は。
頭に浮かぶ考えは、あるひとつのイメージからわき出している。それは、街宣で数限りなくすれ違った無表情な若者の目。あるいは、20%という20代の投票率。その半分が田母神支持という現実。

ここから逃げちゃいけない。「最近の若い者は」と愚痴ってみたり、「けしからん」と怒ってみたり、「何考えてるかわからん」と突き放してみたり、それは全部責任放棄だ。高度成長だバブルだと浮かれてきた世代の、身勝手な勝ち逃げに他ならない。

20代30代に届く言葉は何か。それは少なくともジジババの説教ではない。戦争は悲惨だよ、戦争はいけません。そんなことは、いくらイマドキの若者だってわかっている。しかし、それ以上のリアリティが目の前の生活であり、自分の将来なのではないか。

それは、団塊の世代だって同じことだ。あれだけ天下を騒がせた全共闘世代が、その同じ人間が日本の資本主義の屋台骨を支えてきた。自己否定はどこに行ったのか?ロードス島は遠い世界に消えてしまったのか?
そうやって、団塊やらぼくら50代やらが作ってきた世の中で、若者はギリギリの生活を強いられ、死ぬまで生きられる気がしない人生の前に立っている。

この現実に向き合わない限り、民主主義という方法で何事かをなすことはできないだろう。
民主主義というのは魔法の杖ではない。それどころか、所詮は支配のためのシステムに過ぎない。

絶対王政に対する市民革命を実現するために、ブルジョアジーが支配しやすいシステムを考案したのだ。
カミの支配からカネの支配に。それが民主主義の本質であり、そもそも金持ちが自分たちに都合の良いように作ったものだ。

しかし、だからと言ってそれに代わるものがあるわけではない。「善良な王様」を待望する人もいるし、「プロレタリア独裁」を指向する人もいる。しかしどちらの独裁も、独裁である限り限りなくリスキーであり、間違いなく今よりも悲惨になることは実証済みだ。

だから、いかに欠陥だらけでも民主主義という方法をとらざるを得ない。とらざるを得ない以上は、最大の得票率を得ている「選挙に行かない」党を獲得できる政策、言葉、気概が必要だ。絶対に。
「選挙に行かない」党の圧倒的多数は20代30代であり、街宣ですれ違ったファッショナブルで無表情な彼ら彼女らだ。

■■

現代の「米騒動」ではないか。今やるべきは。

何でGDPを500兆円も稼いでいる国で、若者が生活に困らなくてはならないのか。死ぬまで生きることが保証されないのか。














(引用2)「ヤフー知恵袋」から転載。



「ここが、ロードス島だ、さあここで飛べ」とは、何を言っているのでしょうか?

mousukosisitadaさん


「ここが、ロードス島だ、さあここで飛べ」とは、何を言っているのでしょうか?



 


ベストアンサーに選ばれた回答


prof_mowwieさん


イソップ寓話に収められた「ほら吹き男」の話に出てくる言葉です。

古代競技のある選手が、遠征先から帰ってきて自慢話をし、
「おれはロドス島では、五輪選手も及ばないような大跳躍をした。皆がロドス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言してくれるだろう」、
と言ったところ、それを聞いていたうちの一人が、
「そんな証言は要らない。君が大跳躍をしたと言うなら、ここがロドスだ、ここで跳べ」
と言った、という話です。

この寓話からどんな教訓を読みとるかについてはさまざまな解釈があるようで、最も素直な読み方は、「手っ取り早い方法で証明できることについてくどくどと論じる必要はない」ということで、「論より証拠」に近い意味になるでしょうか。

また、「実力を出さなければならない場面で出せないのは、真の実力ではない」といった教訓を読みとるのも一般的なようです。

ヘーゲルやマルクスは、それぞれの自著の中で上記のイソップ寓話からこの言葉を引用しているようです。それぞれがこの言葉にどのような意味を込めたかについては、上記猿田彦様の説明にお譲りします。

ちなみに、「ロードス島(Rhodes)」はエーゲ海に実在するギリシャ領の島ですが、この寓話を語る際には「ロドス」と記すことが多いようです。
また、話の意味から、「飛べ」ではなく「跳べ」とする方が正しいでしょう。
http://www6.plala.or.jp/symbell/book/story.htm


 


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