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徽宗皇帝のブログ

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二つの柱
今日は引用無しでだらだらと自分の浮遊思考を書いてみる。

かつて軍備の無い国があった。琉球王国である。
その国は日本(ヤマトゥ)という国に攻め込まれ、占領され、支配下に置かれた。今はその国の県の一つになっている。
では、琉球の人民にとってそれは悲惨・不幸な運命だっただろうか。
確かに、併合された初期には貧困のどん底にあり、本土(他府県)からの差別もあった。しかし、人民の貧困は琉球王朝でも同様だったのであり、差別はnew commerに対しては普遍的に発生するものだ。しかも、琉球王朝内でも上による下の差別、中央による地方の差別はそれ以上にあったのである。琉球王朝時代を天国であったかのように言うのは琉球独立論者の妄想だろう。
さて、琉球の「人民にとっては」、軍備を持たない琉球王国が他国にあっさりと併合されたのは不幸だったのだろうか。
そこが私が問題提起したいところだ。

国家には絶対的に軍備が必要だ、憲法9条など馬鹿げている、という意見をよく見る。
この意見を突き詰めれば、国家がすべて焦土となり、人民が全滅しても他国の侵略に対しては立ち上がり、戦うべきだ、ということになるのではないか。というのは、日本は島国であり、海岸線は膨大に長く、どこからでも侵略でき、日本全国に原発が立ち並び、防御は不可能、と思えるからだ。
とすれば、戦争の持つ意味は、「お互いに原爆などは使用しない」という「約束」の下で、人民同士が戦いあって血を流し、国民の数を適当に減らしたところでお互いの上の人間が終戦を決定するという「プロレス」戦争しかありえないことになるのではないか。
さて、これと比べて、琉球王国の日本に対する「ほとんど戦わないでの敗戦」は琉球人民にとって不幸だったのだろうか。また、それと比べて、太平洋戦争での、「住民の5分の1が死亡」した沖縄戦ははたして幸福だったのだろうか。

いや、死にもまさる「大義」がある、と言いたい人は、どうぞ自ら鉄砲担いで戦場へ行って貰いたい。自分自身が戦場に出るつもりがないなら、どんな老人だろうが女性だろうが戦争肯定の発言はすべて無効になるだろう。

さて、沖縄の民衆にとっては上が琉球王朝政府だろうが日本政府だろうが、あるいは米国だろうがはたまた中国だろうがまったくどうでもいいのである。

沖縄には「物を呉れるのが自分のご主人だ」という、はなはだ下品な言葉がある。「命こそが宝だ」という言葉もある。精神性や品性というものを重んじる人々からはどちらも嫌われるような言葉である。だが、生きることを大前提とし、現実を直視して考えるならば、この二つの言葉は、ロマンチシズムのカケラも無いが、大事な言葉なのかもしれない。
もちろん、私は人生にロマンチシズムは必要だと思っているから、この二つの言葉は嫌いだ。だが、政治の文脈では、この二つの言葉を二つの柱としなければならないだろう、と思っている。

まともに「物を呉れない」政府、国民の「命」を危険にさらす政府が自分たちにとって「主」であるはずはない。言うまでもなく、民主主義という「現代の神話」を棚上げし、政府や企業が自分たちの主であるという現実を直視したらこういうことになるのではないか、という話である。






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