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徽宗皇帝のブログ

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人権は「市民間の努力目標」ではなく、国民の政府に対する「権利」である
「紙屋研究所」記事の一部で、この部分だけでも独立した記事として読めると思う。
非常に重要な指摘であり、日本で「人権」という言葉が行政によっていかに捻じ曲げられ、「政府(行政)とはほとんど無関係な、市民間の道徳問題」として放り出されているかが分かる。そしてその捻じ曲げは学校教育段階から始まっている。
ただ、最初に出てくる「パターナリズム」を「温情主義」と注釈しているのは少し違う気がする。行政や教育界の姿勢は「温情」とは無関係の、むしろ「無責任主義」である。要するに、「愚かな民は依らしむべし、知らしむべからず」という、庶民を無知の檻の中に閉じ込めておく姿勢だ。まあ、昔の医者が、患者に説明しても患者に理解できないだろうから、何も説明せず、ただ自分の処置に従えばいい、とする姿勢などが「パターナリズム」だろう。これは「温情主義」だろうか。「家父長主義」「父権主義」「思想的奴隷制度」とでも訳すべきものだろう。偉い人の言葉に、黙って従え、という思想だ。

(以下引用)




「人権=思いやり」というパターナリズム(温情主義)


 人権教育を専攻としている阿久澤麻理子は次のように述べる。



 学校教育――とりわけ初等中等教育――の現場では「子どもに権利を教えると、自分勝手な主張が増えて、学校がまとまらなくなる」という意識はいまだ根強く、人権教育が既存の生徒と教師の関係を変えてしまうのではないかという危惧が存在する。それゆえ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や「思いやり・やさしさ・いたわり」と行った道徳的価値の学習に読み替えられやすい。(阿久澤麻理子「人権教育再考 権利を学ぶこと・共同性を回復すること」/石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』法律文化社所収p.35)



 



 



 



 ここで「表面的な憲法学習」が取り上げられている。これについてもついでに一言。



 これはぼく自身が受けてきた学校教育がそうだった。



 例えば社会科で習う「表現の自由」とは「自分とは関係のない」わいせつ表現を自由にするかどうかという話であり*2、それが自分が制服や指定バッグを強制されるかどうか、丸刈りを強制されるかどうかという問題と密接に関わっており、自分がその権利をもとに「声を上げる主体」であることを意識的に注意深く眠りこまされていた。



 「教育を受ける権利」「教育の機会均等」は、高学費によって政策的に踏みにじられている日本の現実には決して認識が届かず、「日本は義務教育や奨学金によってこの権利は保障されている。発展途上国はかわいそうね」のような認識へ導かれる。「学費を下げろ!」「給付制の奨学金を!」という運動には絶対に結びつけてはならないというわけだ。



 同じく「表現の自由」を根拠にして校則を変えたり、子どもの権利条約を根拠にして生徒にも意見表明をさせろと主張したりすることは、とんでもないことだとされるのである。



 憲法に定められた人権は、徹底して自分とは関係のない縁遠い権利であり、間違っても学校で行使してはならないことを繰り返し叩き込まれる。*3



 



 権利より価値を強調するのは、学校だけにとどまらない。日本では国や自治体が実施している人権啓発事業にも共通した傾向がある。しかし「思いやり」を強調する啓発は、「弱者に対する配慮」や「温かな人間関係」による問題解決を理想として描き出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、その実現を求めて立ち上がるような「争議性」のある解決を回避し、そうした運動のシーンを啓発の中でとりあげようとはしない。「弱者への配慮」を強調する啓発は、ときにそれが「強者」と「弱者」の非対称的な力関係にあることに無自覚で、結局のところ、人権ではなくパターナリズムを教えることに陥っている。(阿久澤前掲p.35-36)



 このような「人権=思いやり」という議論は何を招いてしまうのか、阿久澤麻理子は次のようにのべる。



 さらに「思いやり・やさしさ・いたわり」型アプローチの問題は、人権に関わる問題を市民相互の私的な人間関係のなかで、「心のもちよう」によって解決するよう促す点にある。ここには「国家」と「市民」の関係は介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の確立による解決の道筋がみえない。このことは、国の役割が縮少し自己責任、自己救済の風潮が強化されるネオリベラルな社会に、きわめて高い親和性をもつ。人権問題を民主主義のメカニズムを通じ、諸制度を構築しながら解決しようとするよりも、私的世界に問題を差し戻すことになるからである。(阿久澤前掲p.36)







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