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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

全国紙の時代から地方紙の時代へ
あいば達也の「世相を斬る」から転載。
ひと月半もネットから離れていたので、幾つかのブログを巡回して、その間のネット記事をゆっくり読み返しているところであるが、たいした情報は無い。ネットなど、長期間離れていても何も問題は無い、ということだ。世間の情報に遅れることなど心配する必要は無いようだ。事件そのものは常に変わるが、事件の性質は十年一日である。コメントも然り。
まあ、新聞やテレビも、無くても困らないが、一応、世間的に有名な事件は知っておきたいので、新聞はコンビニで朝刊だけ買うし、テレビはDVD鑑賞などもあるので、仕方なく購入した。
しかし新聞記事は、テレビ欄とスポーツ欄、三面記事以外には読む部分も無い。130円でも高いくらいだし、朝日新聞に至っては150円は高すぎる。他新聞より20円高いのはどういうつもりか。まあ、いしいひさいちの四コマ漫画の分だと考えるしかない。それ以外に20円分の値打ちは無い。右翼ヤクザ新聞の読売や財界御用達新聞の産経、日経は死んでも買う気は無いので、とりあえず毎日新聞くらいしか買えない。
地方新聞の京都新聞も、(下記記事末尾にあるように)記者クラブ参加新聞では、地方新聞としてのメリットは無いし、四コマ漫画がアホすぎる。毎日は東海林さだおだから、少しはいい。四コマ漫画が何かは、けっこう大事な選択要素なのである。
ネット記事やブログに関しては、日にちが経過していても有益な記事は幾つかあるので、気にいった記事はピックアップしていくつもりである。下記記事はその一つで、私の故郷沖縄の地方新聞がこんないい社説を書いていたと知って非常に嬉しい。愛狂信、……じゃない、愛郷心が刺激される。
小沢裁判について、これほど的確な指摘をした社説は珍しい。新聞の社説などこの世でもっともくだらないものの一つだと信じていたが、そうでない社説もあることが分かって幸いである。もちろん、新聞という存在にとって幸い、ということだ。琉球新報は全新聞の名誉を高めたと言っていい。

(以下引用)


それでは次に、琉球新報の社説を読んでいただこう。この沖縄の新聞社の社説は中々独特の味を出していて、筆者の好みだ。

≪小沢判決/検察の「闇」が裁かれた 全面可視化しか道はない
裁かれたのは検察の深い闇だ。そう受け止めざるを得ない。政治資金規正法違反罪で強制起訴された小沢一郎民主党元代表への判決で、東京地裁は無罪を言い渡し、検察の手法を厳しく批判した。
 供述を検察が「ねつ造」したことが明らかになったからだ。大阪地検の証拠改ざんもあった。断罪されたのは検察の体質そのものと言える。もはや検察の調書は信頼できない。取り調べを全面可視化するほか信頼回復の道はない、と法務当局は認識すべきだ。
 今回、「ねつ造」された供述はそのまま検察審査会に送られ、強制起訴の根拠になった。検察審査会の在り方も議論すべきだろう。

証拠改ざんに通底
 この裁判の最も重要な瞬間は、小沢氏の弁論などではなく、むしろ田代政弘検事の証人尋問だった。昨年12月の公判で田代検事は、事実と異なる捜査報告書の作成を認めたのだ。
 2010年5月、田代氏は元小沢氏秘書の石川知裕衆院議員を再聴取した。その報告書には「あなたは国会議員。やくざの手下が親分を守るようなうそをついてはいけない」と検事に言われたのが効いた、と石川氏が述べ、小沢氏の関与を認めたかのように記した。
 だが石川氏はかばんに録音機をしのばせ、隠し録音していた。このため、そのような応答は全くなかったことが証明できた。
 田代氏は「過去の供述と記憶が混同した」と弁解したが、あまりに不自然だ。録音されていない「供述」はほかにも数多くある。裁判所が弁解を「にわかに信用できない」と退けたのも当然だ。
 取調室は密室である。隠し録音をしていなければ報告書が虚偽だとは証明できなかっただろう。ほかの調書類でも同様の「ねつ造」がないと信用できるだろうか。
 検察のストーリーに合わせて事実をねじ曲げた点は、大阪地検の証拠改ざんとも通底する。もはや検察の体質と化していた、と疑わざるを得ない。
 検察は取り調べの一部可視化を始めているが、全面可視化は拒んでいる。だが一部可視化は可視化しないのと同じだ。検察に都合のいい部分だけを公開し、ほかは隠しておける仕組みでは、可視化の意味がない。法務当局は、国民の信頼を取り戻したいなら、全面可視化を断行すべきだ。
 市民団体は田代検事を虚偽有印公文書作成・同行使罪で告発したが、検察は起訴を見送る方向という。大阪地検の証拠改ざんは最高検が捜査したが、今回は東京地検が担当だ。東京地検の犯罪を東京地検が捜査して、公正と言えるはずがない。最高検か他の地検、警察が捜査すべきではないか。

資料開示も必要
 検察審査会(検審)の仕組みもあらためて問われる。今回は検察が起訴を見送った事案だが、市民の告発を受けて検審が2回議決し、強制起訴となった。
 だが検審の仕組みもあまりに不透明だ。政治的に対立する人が恣意(しい)的に告発することは、いくらでもできる。審査が何回開かれたか、委員がどんなメ ンバーかも分からない。
 検審に開示する資料を検察が恣意的に選ぶことも可能だ。今回の審議も、くだんの捜査報告書を基にしていた。全面可視化と同時に全ての捜査資料を全面開示する仕組みでなければ、公正な審議はできないのではないか。これは裁判員裁判にも言えることだ。
 強制起訴が可能になったのは裁判員制度と同じ09年の司法改革からだ。それ以前、検審が起訴議決をしても、警察官や検察官が身内の犯罪をかばうかのような不自然な不起訴が続き、市民の不信感が高まったことが背景にある。
 だから強制起訴の仕組みの必要性にはうなずける点もある。だが政治家は起訴だけで議員辞職を迫られてしまう。特定の政治家を恣意的に排除できるかのような仕組みは改善の余地がある。国民的議論で改善策を導き出すべきだ。≫(琉球新報:社説)

琉球新報は東京新聞の遠慮部分にも、ズバリ切り込んでいる。≪断罪されたのは検察の体質そのものと言える。もはや検察の調書は信頼できない。取り調べを全面可視化するほか信頼回復の道はない、と法務当局は認識すべきだ。≫、と断言し、≪市民団体は田代検事を虚偽有印公文書作成・同行使罪で告発したが、検察は起訴を見送る方向という。大阪地検の証拠改ざんは最高検が捜査したが、今回は東京地検が担当だ。東京地検の犯罪を東京地検が捜査して、公正と言えるはずがない。最高検か他の地検、警察が捜査すべきではないか。≫とまで言及している。司法記者クラブ所属メディアでは、デスクが一発で没にする社説が見事に語られている。これが本来のジャーナリストの命である。

琉球新報は司法記者クラブに属せず、地域の情報に独自性を出している新聞社で、中央の情報は通信社の配信を軸に紙面を構成している。ゆえに、社説や地域報道では、独自性を如何なく発揮できる、恵まれた環境にある地域メディアだ。本来であれば、地方紙こそが、記者クラブのしがらみから逃れ、独自の視点で紙面を充実させられる利点を有している。その他の地方紙でも、切り口鋭い論説を語るところも出てきているが、まだまだである。今後、地方紙こそが、“中央にモノ申すメディア”としての存在感が示せる筈である。

今や時代は、中央集権から地域主権の時代に移っている。この潮流は、どれほど霞が関が死に物狂いの抵抗をしようが、マスメディアがそれを擁護しようが、抗うことが不可能な世の中の流れなのである。問題は、その潮流が加速するか、ゆったりとした流れで進むかの違いである。その点で、地方紙にはチャンスが到来しているのだ。遅かれ早かれ、中央でだけの出来事が国を動かしているわけではない、地域自治の時代は必ず来る。その時に向かって、地方紙はポジションの優位さを如何なく発揮して貰いたいものである。

注:参考までに、司法記者クラブ所属団体を列挙しておく。 ≪ 朝日新聞 毎日新聞 読売新聞 日本経済新聞 産経新聞 東京新聞 北海道新聞 西日本新聞 京都新聞 中国新聞 ジャパンタイムズ 共同通信 時事通信 NHK 日本テレビ TBS フジテレビ テレビ朝日 テレビ東京 ≫。きっと素晴らしい司法関係の報道をしているのだろう。今後も、笑いながら読ませて貰ったり、視させて貰うとするか(笑)

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