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徽宗皇帝のブログ

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共産主義への幻想的恐怖
「世界史の窓」というサイトから転載。このサイトは文章が簡潔で、しかも要を得ており、歴史の疑問点を調べるのに便利である。
ケネディに比べて人気の無いジョンソン大統領だが、ベトナム介入を始めたのはケネディであり、ジョンソンはいわば貧乏くじを引いたようなものだ。彼のベトナムへの態度は、「ベトナム戦争の記録」によると、終始慎重であったが、軍事に詳しくないこともあって、周辺の強硬派に動かされてどんどん泥沼に足を突っ込んだ感がある。内政では公民権法の成立や社会福祉重視など、平和時なら善政と見られる政策を採った「良い大統領」の資質を持った人だったと思うが、ベトナム戦争への米国内外の批判が彼に集中したために、いわば「心ならずも歴史の悪役になった」大統領だと思う。まあ、要するに「南ベトナムが倒れれば東アジア全体が共産化する」というドミノ理論がベトナム戦争の根本原因だろう。現実は、そうはならなかったのはご存知のとおりだ。いわば「共産主義への幻想的恐怖」がベトナム戦争の膨大な死を引き起こしたということである。
もちろん、当時「共産主義」と言われていたソ連や中国の国内政治も褒められたものではないが、なぜ世界が共産化すると西洋諸国(資本主義諸国)が恐れていたかというと、「資本家や政治家や官僚が大衆から搾取している事実がれっきとしてある以上、いずれそのしっぺ返しは必ずくる」と西洋の「上級国民」は信じていたからである。



ジョンソン



大統領専用機内で大統領就任の先生をするジョンソン。右はケネディ夫人のジャクリーン。



アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。ケネディ暗殺に伴い副大統領から昇格し、ベトナム戦争に踏み切った。内政では「偉大な社会」を提唱し、公民権法を実現した。


 アメリカ合衆国民主党の政治家。ケネディ大統領の副大統領となり、63年11月にケネディが暗殺されたため、大統領に昇格した。ケネディの政策を継承し「偉大な社会」というテーマを掲げて公民権法を成立させ、社会福祉の充実、貧困の克服、教育改革などでも実績を上げ、64年に再選された。
 ジョンソン政権下で公民権法の成立や教育改革などでは実現をみたが、その他はベトナム戦争の深刻化が進行し、軍事費の増大が財政を圧迫したため、思うような成果を上げることは出来なかった。
 この軍事費増大と社会保障費の増大は、アメリカ経済の行き詰まりの原因となり、1971年のニクソン大統領の時のドル=ショックへとつながっていく。

「偉大な社会」


 ジョンソン大統領は、1964年の年頭教書で、「偉大な社会」Great Society の建設を提唱した。それは、「貧困との闘い」を中心課題とし、公民権法案の成立による差別の撤廃、貧困層に対する能力開発と教育改革、経済的麾下の実質的平等化、社会保障制度の拡充などを内容としている。

ベトナム戦争


 ベトナム情勢では南北ベトナムの対立が深刻化し、ジョンソン政権は介入を決意、1964年8月にはトンキン湾事件を口実に初の北ベトナムへの北爆を行い、同年末に大統領選出されてから、翌65年にからはそれを本格的させ、さらに南ベトナムへの地上部隊派遣を開始した。こうしてベトナム戦争に突入した。ジョンソン政権はサイゴンのゴ=ディン=ディエム政権を維持するため、南べトナム解放民族戦線(ベトコン)の壊滅を狙ったが、激しい抵抗を受け戦争は泥沼化していった。
ベトナム反戦運動の激化 国内外のベトナム反戦運動は次第に激しくなり、1968年正月にはベトコンによるテト(旧正月)攻勢が始まってアメリカ軍は大きな被害を出し、民主党内にも停戦を望む声が強くなった。その年は大統領選挙が予定されていたが、3月にジョンソンはベトナム和平を呼びかけるとともに、涙ながらに再選出馬断念を表明した。
再出馬せず ジョンソンはパリ和平会談に期待をかけ、停戦を実現することで民主党の後継者ハンフリーの当選を期待したが、和平交渉は双方の非難の応酬が繰り返されて進展せず、国内ではキング牧師と民主党レベラル派のロバート=ケネディ(ケネディ大統領の実弟)が相次いで暗殺されるという混乱の中で、11月の大統領選挙では共和党ニクソンの当選を許した。

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