なぜこの二つを連続して載せるかと言うと、出版業(「週刊ダイヤモンド」記事ではそれを「印刷業」などと糊塗しているが、笑止である。印刷業より先に出版業が死滅するだろう。)はこのままでは滅亡する、というのは明らかだが、その先にあるのは何か、ということを考えたいからだ。
言うまでもなく、社会全体の人間が本(文字で書かれたもの)を読まなくなる、ということはありえない。文字による伝達は、あと数世紀は続くだろう。べつに根拠は無いが、そう思う。
本と雑誌ならば、まず雑誌が先に淘汰されるだろう。なぜなら、雑誌的機能はネットで既に代替されているからだ。パソコンを使うかスマホを使うかは二次的な問題にすぎない。本はキンドルなどの「電子的読書機械」に代わるだろうが、本という「モノ」は、操作的にも、美学的にも、「電子本」にまさる面がある以上、すぐには代替されないだろう。しかし、本の中でも辞書など、「情報検索」を主旨とする本は電子的装置に置換され、議事録などのようにどんどん累積していく大部の資料もどんどん電子化されるのが当然だ。教科書の類も結局は「情報検索」が主目的なのだから、電子化されるだろう。また、重要性は高いが、滅多に読まれない歴史的資料や古典文学なども、電子化されていくだろう。(これは、国家事業として行うべきものだ。)そうして、最終的には、ほとんどの「紙」の記録は電子的記録に置き換わっていくことになる。つまり、紙を使った出版業、印刷業は終わるのである。
さて、その先にあるのは何か、が本題なのだが、引用が長いので、今はここまでにしておく。
一つ、追記しておく。先ほど「付録」を付けたが、その中にある「電子出版は利益を生まない」という竹熊健太郎の予測は最重要なポイントであり、これがフリー(無料)出版、著作権保護既得権益などの問題と関わってくるだろう。ただし、私は(引用1)の筆者同様に、そこに逆に明るい未来の可能性を見ている者である。
(引用1)色字は徽宗による強調。
ではそのまずはじめに、本書の出版方式上の選択について少々。
すでにご覧いただいているように、本書は、ネット出版を通じ、フリーで出版している“書物”です。ハードプリントした、いわゆる「本」としての出版物ではありません。
私は、このネットかつフリー出版という方式に、ひとつの手段的可能性を見出しています。というのは、本としての出版とは、既成のいずれかの出版元の手をへ、その名が冠せられ、値段がつけられ、宣伝もされてその販売ルートに乗せられて読者の手に届くというルートをへます。つまりそれは、出版という事業がそれなりの専門性や設備やそのノウハウを必要とした時代の方式です。そしてそうして出版される本は、そうした既成の権威の磁界に置かれ、その支配力の下の一連の慣行や評価や値踏みのもとの産物となります。早い話が、「売れそうもない本」は永遠に出版されず、それが人目に触れることはまずありません。
しかし、もし、別のインフラが発達し、書き手側がそれだけの必要手段を曲がりなりにも自ら備え、しかも、その磁界を振り切ったその圏外の世界をも描こうとする時、その圏内での出版に依存する必要は見出せないばかりか、無意味でもあります。言うなれば、インターネットが、かって存在した百科事典出版――豪華なセットが常だった――という“恐竜”事業を絶滅させたように、それが「恐竜」と化していない生物であるなら、それなしでも生き抜いてゆけるはずです。
今後の各章を読めばご理解いただけるように、この「新学問=反学問」の核心は、外からの評価や測定をできる限りなくし(無視を前提にしているわけでは決してありません)、読み手自身の無色透明で無拘束な判断と呼応しあってゆくことが決定的に重要だ、というところにあります。いうなれば、既成のルートに乗った段階で、もはやその出版の趣旨は大なり小なり損なわれているのです。
むろん、ネットによるフリー出版自体にも、何らかの限界――作者の“体力”や、読み手も誰でも完全に「無色透明で無拘束」に利用されうるものではない――はあります。つまり、現実的に選びうる可能な方法として、この方式がそうした外的制約を最小化するものであると考えます。
それは、誰か未知の人と出会う時、何らの予断もなく、自分がそう決めたとも思えぬ、ほとんど偶然のようにも起こった出会いが、もっとも新鮮で劇的であることと似ています。
以下に述べるように、次元をまたぐ新旧が問題とされる時、片やの世界から他方の世界の観測や測定は、もはや、有効な手法とはならないのです。
(引用2)
今回注目したいのは、「ダイヤモンド」の特集記事『Part 3 プロが明かすわるい会社<最新版>』だ。今後転落するであろう業界に迫っているのだが、倒産に関する専門家である信用調査会社によれば、危ない業界として、運送業、印刷業、外食産業が挙げられるという。
まず、運送業は「排ガス規制対応や車両の更新投資などの設備投資負担が重かったところに、円安による燃料費の高騰が追い打ちをかけた」といい、資金需要はあっても、銀行から資金調達できずにノンバンクを利用している運送会社が増えている実態を明かしている。
印刷業は「広告費の減少やペーパーレス化の進展でニーズが低下」した。昨年の象徴的な倒産は、パナソニックに売り上げの大半を依存していた真生印刷(大阪)で、パナソニックからの受注が減少した影響を受けて、昨年9月に民事再生法の適用を申請した。
外食産業も食材の値上がりに大きな影響を受けている。特に、デフレ型飲食チェーン店が振るわない。「東京チカラめし」で一世を風靡した三光マーケティングフーズは「支払いが悪化しているとの噂も聞こえてくる」という。
また、今後、悪化すると考えられるのがファミリーレストランやラーメン店だ。ファミレス業界はこの10年間売り上げが伸びておらず、「利益率は1~6%に下がっているし、毎年利益率のアップダウンが激しい」といい。さらに円安で輸入材料の値段が上がれば、余計に利益率を圧迫してしまう可能性が高い。ラーメン店も「代替品となる店も多く、競争が激しいため、どうしても収益性が低くなる傾向にある」として、見通しの暗さを案じている。
(付録)「竹熊健太郎」ツィッターより転載。
- [承前]極めて深刻で厄介な問題について、私は書いています。これは、話を進めていくと、日本の社会が現在罹っている極めて治癒困難な病気の話をするはめになるでしょう。とにかく明快で誰もが納得する答えはありません。電子出版を本気で推進しようとしたら、
- [承前]それはつまり、今働いている出版社の人間の、4分の3位をリストラすることになるのではないでしょうか。電子出版は少数の人員で十分できます。そんな事をしたら大変な社会問題になります。マスコミ人間は版元の社長や政治家を失脚させることもできる、アンタッチャブルな存在なのです。
- [承前]要は「第四の権力」と言われるマスコミの中心を占める大手出版社が悉く漫画単行本で社員の生活を支えている事実、それが問題の本質なのです。サブカルチャーである漫画が、カルチャーの中心たる出版社社員の生活を支えている皮肉な現象があり、出版社は漫画も紙の本も止められないのです。
- [承前]漫画に対してこの形容は使いたくなかったですが、日本の出版社にとっての漫画単行本は、麻薬みたいなものです。当たると効果は大きいが、副作用も大きい。考えても見てください。1冊の少年漫画が、100万冊も200万冊も売れるという事実からして、異常現象といっていいです。
- [承前]ではなく番号で繋げるべきでした。長くなりました。日本の出版界を覆っている「ベストセラー狙いのギャンブル体質」は、もはや取り返しがつかない地点に来ているのでは、と私は危惧しています。それは日本の取次と関係があります。外国の本の流通で同様の制度があるのか、私は存じませんが、
- [承前]日本の取次は書店からの売上金が回収する以前に、版元に対して売上金を前渡しする制度がありおます。これが出版をギャンブルに変えている元凶だと私は思う。つまり版元が本を1万部印刷して取次に納品したら、取次は、売り上げが確定する以前に、1万部の売上金を、版元に入金するのです。
- なぜ売れたかどうか確定していない本の売上金を前渡しするのかと言うと、そうしないと版元は次の出版の資金繰りに苦労します。そこで、取次が売り上げを前渡しすることで、スムーズな出版活動を支援することがこの制度の目的です。1万部刷った本が1万部売れれば、この制度は問題がありません。
- [承前]問題になるのは、1万部刷って5千部しか売れなかった場合です。この場合は5千部分の売上金がそのまま版元の取次に対する借金になります。それでは困るので、版元は借金返済期限が来る前に、また新刊を作って、取次から借金を重ねるのです。これが出版界の「取次多重債務」の実際です。
- [承前]一流の大学を出た秀才が揃っている日本の出版社で、そんな小学生でもダメだとわかる幼稚な窮状になぜ陥ってしまったのか。この事実に気がついて、私は言葉を失いました。本当に、借金返済のための借金をするという理由で、出版社は紙の本を出し続けなければならないのです。
- [承前]いいかげん長いのでそろそろ。結局は国民の預貯金総額が1200兆あるという理由で、国民からの借金である国債を乱発する政治状況と変わらない状況が、出版界でも起きているわけです。「身内同士の借金感覚」というやつです。たとえ感覚はマヒしていても、借金は借金です。
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