数年前に、秋葉原やマツダ本社工場の無差別殺傷事件などについて、知人と話したことがあります。
これらの事件の共通項は、いわゆる「負け組の男」が犯人であることです。その時の会話では、犯行に至る心理を、
- 犯人にとっては生きていくことそのものが苦痛。
- 苦痛から逃れるために死を願うようになる。
- 「一方的敗者」として死ぬことが悔しいため、自分を苦しめた「敵」に一太刀浴びせてから死にたい、と考える。
- しかし、敵は「社会」という漠然としたものであるため、代わりに「社会でうまくいっている人々」を敵と(無理やり認識)して攻撃する。
ではないかと分析しましたが、「黒子のバスケ」事件の犯人の告白がその分析と合致することに驚いています。(以下、強調は引用者)
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。
ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。
自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。
知人は、「“負け組”を減らす政策を採らなければ、“社会への報復型犯罪”増加は避けられないのでは」と危惧していましたが、この犯人も同様の警告をしています。
そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。
これに加えて危惧されるのは、「子供のいない独身者」が今後増加していくことです。子供のいる人の場合、「子や孫のため」という意識が、無謀な破壊的行動(環境破壊など)への抑止力として働きますが、子供がいない人にとっては「自分が死ねば世界も終わる→思い残すことはない」も同然であり、抑止力が弱まる(働かない)ことが避けられません。このような人は、将来への希望が失われた時点で「無敵の人」になる可能性が高く、社会の安定・結束にとって脅威です。
【先進国を立ち枯れさせる「若者が成長できない症候群」】では、先進国が自己破壊的な経済政策を採っていることを指摘しましたが、その政策は、「負け組」や結婚できない若者を増やすものとも言えます。
将来に向けて「無敵の人」を量産し続ける経済社会システムを軌道修正しない限り、明るい未来像は描けそうにありません。
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