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徽宗皇帝のブログ

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二種類の「無敵の人」を生み出す社会

「think outside the box」から転載。
このブログは、以前に批判的な文脈で記事を引用させてもらったが、今回はその内容に賛成の意図での引用である。もっとも、以前に批判的に引用したとは言っても、その言説が社会的に危険な利用のされかたをしかねない、という意味であり、その内容自体への批判ではない。書かれた内容は実に合理的な思考によるものであった。しかし、その合理性とは、世の中の「無駄なもの」を切り捨てる、という方向への運動性を持っているから、それを私は批判したわけだ。
世の中の「無駄なもの」とは、「非生産的な存在」、すなわち社会的弱者もその中に含まれる。医療や福祉にかかる経費が社会的に増大することは、生産的ではない、というのは「合理的」な思考であり、それはまったく正しい。しかし、その考えは「経済面」から見ての正しさにすぎないのである。つまり、合理性とは、「一面的な正しさ」でしかない、ということが多い、というのが私が最近主張していることだ。この種の合理性を「経済的合理性」と言ってもいい。そして、この思考法が現代世界の悲惨の一大原因である、ということである。「正しい」から、論破するのが難しい。だから、世界にはびこるのである。
さて、下記記事にはまったく賛同する。「無敵の人」とは逆説的な、皮肉な言い方だが、今の社会がこうした「社会から見捨てられたがゆえに、どんな悪事をしても怖くない」と思うに至った「無敵の人」を大量に生み出していることは容易に推測できる。
もちろん、曽野綾子風に、これは社会への甘えにすぎない、と突き放すこともできるだろう。フクシマの被災者も、老人も、すべて社会に甘えている、というわけだ。
はたしてそうか?
この格差社会の中で、それほどの才能に恵まれない人間が、社会で上昇できないことに絶望したとして、それは甘えなのか? それは個人的な努力でのみ解決されるべき問題なのか?
親から遺産を相続して、社会的に有利なものをすべて所持して人生を泳ぎ渡ってきた人間たちが、社会の最下層にいるひとびとを蔑視し、「奴らは甘えている」と言うのである。いや、べつに曽野綾子がそう言ったわけではないが、私の頭の中には彼女の声がそう聞こえてきたのである。(笑)つまり、「無敵の人」との対比として、私には即座に曽野綾子のような人間が頭に浮かんだ、ということだ。そういう人間もまた「無敵の人」ではある。社会を支配する見えないシステムに守られている、という意味での「無敵」という、まったく正反対の意味でだが。




(以下引用)




2014-03-18

「無敵の人」が増加する脅威

 

数年前に、秋葉原マツダ本社工場の無差別殺傷事件などについて、知人と話したことがあります。


これらの事件の共通項は、いわゆる「負け組の男」が犯人であることです。その時の会話では、犯行に至る心理を、

  • 犯人にとっては生きていくことそのものが苦痛。
  • 苦痛から逃れるために死を願うようになる。
  • 「一方的敗者」として死ぬことが悔しいため、自分を苦しめた「敵」に一太刀浴びせてから死にたい、と考える。
  • しかし、敵は「社会」という漠然としたものであるため、代わりに「社会でうまくいっている人々」を敵と(無理やり認識)して攻撃する。

ではないかと分析しましたが、「黒子のバスケ」事件の犯人の告白がその分析と合致することに驚いています。(以下、強調は引用者)


動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。


ですから、黙って自分一人で勝手に自殺しておくべきだったのです。その決行を考えている時期に供述調書にある自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」を全て持っている「黒子のバスケ」の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を「人生格差犯罪」と命名していました。



自分は人生の行き詰まりがいよいよ明確化した年齢になって、自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。


知人は、「“負け組”を減らす政策を採らなければ、“社会への報復型犯罪”増加は避けられないのでは」と危惧していましたが、この犯人も同様の警告をしています。


そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。


これに加えて危惧されるのは、「子供のいない独身者」が今後増加していくことです。子供のいる人の場合、「子や孫のため」という意識が、無謀な破壊的行動(環境破壊など)への抑止力として働きますが、子供がいない人にとっては「自分が死ねば世界も終わる→思い残すことはない」も同然であり、抑止力が弱まる(働かない)ことが避けられません。このような人は、将来への希望が失われた時点で「無敵の人」になる可能性が高く、社会の安定・結束にとって脅威です。


先進国を立ち枯れさせる「若者が成長できない症候群」】では、先進国が自己破壊的な経済政策を採っていることを指摘しましたが、その政策は、「負け組」や結婚できない若者を増やすものとも言えます。


将来に向けて「無敵の人」を量産し続ける経済社会システムを軌道修正しない限り、明るい未来像は描けそうにありません。


 


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