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徽宗皇帝のブログ

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原発と心中してもいいという人々
今日はあまり文章を書く気力が無いので、「阿修羅」記事から今後の日本の在り方について書かれた文章を私の意見の代わりに転載する。下記記事は、ある弁護士の文章のようだが、物事を真面目に謙虚に考える人間なら、たいていはこのように考えるはずだ。
ところが、世間には、「それでも原発は必要だ」という意見の人間が少なくないらしい。
このような、取り返しのつかない大事故、全人類に対する犯罪とも言うべき事故が起こってさえも原発は必要だという人間は、我々とはもはや人種が違うとしか言えない。
自分が快適な暮らしをするためなら、全人類が今後何万年もの放射能被害に遭ってもかまわないという、そういう考えなのだろうか。
「お前たちだって、原発の恩恵に与っているじゃないか」というのは詭弁である。我々は電気の恩恵に与っているのであり、原発の恩恵になど与ってはいない。原発など稼働させなくても今の日本に必要な電力は十分に供給できるというのは、とっくに証明済みだろう。
だが、日本の中の保守思想、あるいは右翼思想というものは、根が深い。そうした人間は(若い人間ほど、なぜか右翼思想にかぶれやすいのだが)原発同様に「日米同盟は絶対に不可欠である」「日本に米軍基地があることは日本のためである」と信じ込んでいる。
もはや、彼らの政治思想は、オウム真理教などと同様に宗教化しているのである。


(以下引用)

基本的に人間は自然の前に無力だ。

近代以前、災害列島に住んできた人々は、そうした思いを連綿と受け継いできたはずだ。

自然に対するそうした謙虚さを踏まえれば、地震国日本にはおよそ原発は不向きなエネルギーであることは自明であろう。

このことは「エネルギー不足」という風評や流言飛語に惑わされなければ誰しも認めるところだろう。

日本では、どのように原子力発電の技術が進歩しようが、常に「想定外」の災害が起こり得る。原発の危険性は除去できない。

地震国だけの問題ではない。
原発の燃えかすである放射性廃棄物は、10万年の単位で管理されなければならない。
現にノルウェーが、10万年の間、放射性廃棄物を保管するために、沖合の島に深さ500mの坑道を掘削して保管場所を作ろうとしている。完成は、2100年だという。

そして、10万年の間、密閉して保管するという。

何万年などという単位は、人知の及ぶ時間ではあり得ない。

人類最初の文明の発祥が紀元前4000年頃とされている。
たかだか人類が文明と呼ぶものを有するようになってから、6000年しか経過していないのだ。

原発の燃えかすは、人類が文明を有するようになってから現在までの時間の十数倍の時間、厳重に保管しなければならない。

そのようなことは、人知を超えている。

原子力発電の技術が容易に原子爆弾に転用可能なことを措いても、このような人知を超えるものに人間は手を出すべきではない。

自然に対して、謙虚でなければならないのと同様に、人知を超える時間を持った原子力に、人は謙虚であるべきだと思う。

僕は、十分な代替エネルギーが開発できるかどうかは、政策次第で容易なことだと考えている。

しかし、もしも、代替エネルギーでは、現在の生活水準を維持する電力が確保できないというのであれば、進んで過剰な部分をそぎ落とすべきである。

無駄と思われる部分はいくらも見つかる筈だ。なぜ便座は便座カバーではなく暖められていなければならいなのか、なぜウォシュレットでなければならないのか、なぜ24時間ずっとテレビが放送されていなければならないのか、なぜ至る所に自動販売機が置かれていなければならないのか、なぜくそ暑い夏も仕事から解放されてはいけないのか…

原子力に手を出さなければ、維持できない生活を確保しようとすることは、人間が身の丈に合わない欲望にとらわれていることを示すのに他ならない。

経済の最低限の目標は、人の衣食住を満たすことだ。
原発がなくとも、すでに経済は、十二分に人の衣食住を満たすレベルに達している。

必要なのは、経済の仕組みを人間の身の丈にあったものに変えていくことなのだろう。

我々は、自然や原子力ではなく、いったい何を恐れる必要があるというのだろうか。  

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