※写真はイメージです
※写真はイメージです© PRESIDENT Online

議論を混乱させているものは何か

本年2月1日の衆議院予算委員会で岸田文雄首相は、同性婚の法制化は「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」と答弁した。この答弁をきっかけのひとつとして、同性婚の法制化の賛否についてさまざまなメディアでさまざまな意見が表明されている。


2月3日には私も、岸田首相の答弁を受けて、同性婚には「生殖可能性がない以上、現状国家が」法的婚姻制度でもって「保護すべき利益が見当たらない」との意見表明をTwitter上で行った


この私のツイートは賛否両々を巻き起こしたが、法的婚姻制度や「婚姻の自由」の意義についての共通の理解がみられなかったため、議論は混乱した。また私のツイートを根拠も無く「差別」と指弾するものも多く見受けられた。それも同じ理解不足に起因するものと考えられる。


そこで本稿では判例や憲法学や民法学の学説を参照して、日本国憲法24条の婚姻の意義を確認し、読者の同性婚法制化の論議の参考としたい。

憲法24条1項に書かれていること

憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。最高裁大法廷の平成27年12月16日の判決は、この規定は、「婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解される」と判示した〔最高裁判所大法廷 平成26(オ)1023 判決〕。


この判旨は、「婚姻の自由」を「当事者間」に、すなわち男女のカップルだけではなく同性のカップルにも認めたものとも読めるが、そうではない。これは民法750条の夫婦同氏制度の合憲性に関する判例であり、それを判断するのに必要な限りで憲法24条1項を前記のように解釈したにすぎない。

日本の司法は同性婚への最終的判断を下していない

すなわちこの事案では争点になっていない同性カップルの「婚姻の自由」について、最高裁は何も判断していないのだ。もっといえば同性カップルにも「婚姻の自由」が憲法上あるか否かについてYesともNoとも言わないために「当事者間」という言葉を用いたのだ。


もっとも昭和62年9月2日の最高裁大法廷判決は、「婚姻の本質は、両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯(しんし)な意思をもつて共同生活を営むこと」としているが、この定義に続いて「夫婦」の言葉も見え、最高裁は、男女のカップルの共同生活を「婚姻」としているように読める〔最高裁判所大法廷 昭和61年(オ)260号 判決〕。


同性カップルに「婚姻の自由」があるか否かについて日本の裁判所はいまだに終局的な判断をしていないと考えておくべきだろう。

同性カップルの「婚姻の自由」をめぐる現状の学説

そもそも同性カップルに「婚姻の自由」はあるのだろうか。憲法学や民法学の学説はこの点をどう考えているのだろうか。


前記の通り憲法24条1項には「両性」や「夫婦」という言葉がある。これらの文言から明らかな通り、憲法は「婚姻」とは異性カップルの問題であることを当然の前提としている。法の解釈は文言にとらわれすぎてはいけないが、文言からかけはなれてもいけない。


今日の憲法学では、この条文について家制度を否定する趣旨にすぎず同性婚を禁じるものではないとの解釈も有力だ(たとえば石埼学・押久保倫夫・笹沼弘志編『リアル憲法学(第2版)』法律文化社、2016年の第9章・斎藤笑美子執筆)。しかし、本条が家制度を否定したことは確かであるが、同性婚については、禁止も許容もなにも、想定していないというべきであり、そもそも「婚姻の自由」は異性カップル以外でも問題になりうるのかがここでは問題である。

現行法は「婚姻」をどう定義しているか

法的に「婚姻」とは何か。民法学者の犬伏由子によれば、現行家族法では「夫婦は暗黙に生殖可能な男女=異性愛カップルであることが当然とされ、婚姻が親子関係の前提をなし、法的親子関係を規律するものと捉えられている。現行法は、生殖と子育てを伴う婚姻家族(法律婚家族)=嫡出家族を中心的家族モデルとして規定していると考えられてきた」(「家族法における婚姻の位置」ジェンダー法学会編『固定された性役割からの解放』日本加除出版、2012年、89ページ)。


憲法学も憲法24条の「婚姻」についてこれと同様の理解をしてきた。憲法学者の長谷部恭男も「婚姻の自由は、当該社会において『婚姻』とされる関係が、広く認知されていることを前提としてはじめて成り立つ」としつつ、「『婚姻』外の男女関係や親子関係、婚姻しないで生きる自由なども、標準形としての『婚姻』があり、それとの距離をはかることで成立する」と婚姻が男女間のものであることを前提とした記述をしている(『憲法の理性(増補新装版)』東京大学出版会、2016年、134ページ)。標準形としての男女の婚姻があるから、それから距離のある「婚姻」外の「男女関係」が問題となるのである。

憲法上の婚姻の自由とは「国家からの自由」でなく「アクセス権」

これらの学説を参照すると、憲法24条のいう「婚姻」の内実として同性カップルの「婚姻」というものが観念しうるのか、憲法上の「婚姻」とはそもそも男女が取り結ぶ一定の関係なのではないか、そして「同性」と「婚姻」を結びつけることが法的に可能なのかという問いが浮かぶ。


憲法24条が同性婚を想定していないのは確かだとして、憲法学説も民法学説も、従来、憲法24条の「婚姻」としては男女のカップルのそれを暗黙のうちに想定してきたと言える。「同性」という言葉と「婚姻」という言葉がそこでは結びついておらず、したがって「同性婚の自由」なるものが憲法上存在するかも定かではないのだ。


なお一般に結婚の自由がいわれるが、異性カップルであれ、同性カップルであれ、カップルが愛し合い、助け合い、結婚式を挙げる等の事実上の結婚を国家が妨げるならば、その国家行為は、幸福追求権を保障した憲法13条に違反すると評価されるであろう。


しかし本稿で問題としているのはそのような事実上の「婚姻」ではなく、憲法24条が自由を保障した「婚姻」である。そこでの「婚姻の自由とは、法の設定するさまざまな効果へのアクセスを保障する権利」(長谷部恭男・前掲書、133ページ)である。国家からの自由と観念される自由権的性質を持つ権利ではない。

男女のカップルと同性のカップルの違いは何か

では憲法上および民法上の「婚姻」はなぜ男女のものなのか。男女のカップルと同性のカップルの違いは何か。それは生殖可能性の有無以外に見いだせない。令和4年6月20日の大阪地方裁判所判決も現行法の婚姻を「男女が生涯続く安定した関係の下で、子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に承継していく関係」としている〔大阪地方裁判所 第11民事部 平成31(ワ)1258 判決〕。


現行の憲法および民法は、生殖可能性のある男女のカップルを類型的に取り出し、それに法的保護を与えている。不妊、高齢等の理由で実際には生殖能力のない男女のカップルでも現行法が婚姻可能としているのは、生殖能力の有無を国家が調べて「婚姻」を許可する制度が個人の尊厳(憲法24条2項)を著しく害するからにすぎない。それゆえに男女のカップルであれば一律に生殖能力があるものとみなしているのだ。

国家が保護を意図した婚姻の「意義」

男女のカップルと同性のカップルの違いが生殖可能性の有無以外に見いだせない以上、そこから法的婚姻制度の目的を考える必要がある。同性カップルであっても、男女のカップルと同様、デートをしたり、共同生活をしたり、結婚式を挙げることは自由である。それらは憲法13条で保障されている。そうした権利保障の上に、憲法はさらに法的婚姻制度をもって男女のカップルのみに一定の法的効果を付与して保護しているのである。


それは生殖可能性のある男女のカップルが子どもを産み育てることに着目し、それを保護しようとしたからである。国民国家においてその諸制度を維持し、社会を継続させていくためにも次世代の再生産という課題を国家が促進するのは当然である。しかしそれを中心的に担うのは男女のカップルからなる家族である。それを個人の自由に任せ、放任しておくだけでは次世代の安定的な再生産は望めない。だから法的婚姻制度でもって異性カップルを保護し、「婚姻」にさまざまな法的効果が発生する仕組みを憲法や民法は創設しているのである。

異性婚の優遇は「優生思想」なのか

なお、そのこと――国民の世代的再生産の担い手の保護としての婚姻制度――を肯定することは、優生思想とは異なる。優生思想とは、再生産される人口として国民の「質」を問い、「不良な子孫の出生防止」(旧優生保護法1条)を唱えることだ(石埼学「憲法25条の健康で文化的な生活と戦後日本の優生政策」遠藤美奈・植木淳・杉山有沙編『人権と社会的排除 排除過程の法的分析』成文堂、2021年参照) 。


そのような優生思想に基づく婚姻制度を整備することは、憲法24条2項のいう個人の尊厳に著しく反するというべきである。しかし婚姻制度へのアクセスを男女に限定することは憲法の予定することであり、また国民の「質」を問題とするものではないので優生思想とは無縁である。

子育て以外にも「婚姻」や「家族」の意義はあるという考え

子どもを産み育てること以外に「婚姻」や「家族」の意義を見いだす見解も今日では説かれている。「独立した個人という理念そのものが非現実的で、達成しえない(私は、あえて“望ましくない”とさえ言おう)前提を土台にしていると言える」「依存状態とは、病的な避けるべきものでも、失敗の結果などであろうはずもなく、人類のあり方の自然なプロセスであり、本来、人の発達過程の一部である」(マーサ・A・ファインマン『ケアの絆 自律神話を超えて』岩波書店、2009年、28ページ)という人間観を基礎に「ケアの絆」の保護を唱える見解が代表的だ。


「ケアの絆に着目した保護や支援という考え方に基本的に賛同」する憲法学者もいる(例えば、斎藤笑美子「親密圏と『権利』の可能性」ジェンダー法学会編『講座ジェンダーと法 第4巻 ジェンダー法学が切り拓く展望』日本加除出版、2012年、86ページ)。血縁があろうがなかろうが、生殖可能性があろうがなかろうが、男女のカップルだろうが同性のカップルだろうが、もっといえばカップル以上の複数の人間の集まりだろうが、そこに「ケアの絆」があればそれを「婚姻」や「家族」として承認しようという見解である。

「変わってしまう」という岸田答弁は的外れではない

こうした見解についてここで言えることは、それを憲法上の「婚姻」や「家族」としたいのであれば、現行憲法24条の文言や従来の解釈から著しく離れるので憲法改正が望ましく、憲法上の「婚姻」とは別の何らかのパートナーシップ制度を作るのであれば、そのことまで憲法24条は禁止していないだろうということだけだ。


同性婚法制化を「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」とした岸田首相の答弁は正しいと言える。「変わってしまう」ことの善しあしは別として「変わってしまう」のだ。


そこで求められるのは、現行憲法や民法の理解を踏まえた議論である。そもそも「同性婚の自由」なるものが、「婚姻」や「家族」の従来の意義からして観念しうるのかから問われねばならない、原理的問題である。


---------- 石埼 学(いしざき・まなぶ) 龍谷大学法学部教授 1968年生まれ。立命館大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。亜細亜大学法学部専任講師、同准教授を経て現職。専門は憲法学。著書に『人権の変遷』(日本評論社)、『いま日本国憲法は:原点からの検証〔第6版〕』(法律文化社、共著)『国会を、取り戻そう!:議会制民主主義の明日のために』(現代人文社、共著)など。 ----------