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徽宗皇帝のブログ

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天皇と沖縄
「陽光堂主人の読書日記」から転載。
まったく私も同意見である。東京新聞社説も、「よくぞ書いてくれた」という感じだ。
ただし、精神的には微妙な違いもあるので、少し私の考えも書いておく。
私は「尊皇攘夷論者」であると何度も書いてきた。皇室(天皇)は日本の歴史と政治と文化の要であったし、ある意味では貴重な文化遺産であり、それを無くすことは、たとえば法隆寺やピラミッドは古い建築物だから取り壊せ、というようなものだ。一つの世代に、そのような暴挙をする権利は無い。我々は無限の歴史の中の、ほんの一時の通過者にしか過ぎないのだ。未来の人間たち、過去の人間たちへの敬意と配慮というものが、今の人間には無さ過ぎる。
昭和天皇の戦争責任は確かにあったし、沖縄を米国に引き渡した責任も天皇にある、とも言えるだろう。だが、あの時点で、敗戦国の元首である天皇にそれ以外の選択肢がありえたか。天皇制度の存続を沖縄よりも優先させたのは確かだ。だが、昭和天皇は、2000年近い天皇家の歴史を、自分の代で終わらせるという選択はできなかったのである。私は沖縄出身者だが、仮に私が同じ立場なら、昭和天皇と同じ決断をするだろう。そして、沖縄を「見捨てた」ことへの悔恨を昭和天皇は終生持ち続けたことが幾つかの記録から読み取れる。見捨てられた沖縄には、確かに天皇を批判する権利もあるだろうが、それは、たとえば親が自分で育て切れない子供を他家に養子に出したことに対し、その養子になった子供が生みの親を恨むようなものだ。では、親は子供を手元に置いて、親子ともども餓死するべきなのか?
昭和天皇への批判はたいていこの類である。私も、昭和天皇への批判を書いたこともあるが、すべて「その立場でない人間」の、相手の置かれた状況を無視しての意見だ。
もっとも、天皇を尊重はしても、天皇を国家元首にしろ、という話は時代錯誤もいいところである。天皇は「象徴天皇」であることこそが、その本来の姿にもっとも近いのである。要するに、日本の象徴であり、政治権力とは切り離されるべきだろう。
引用文も長いので、この問題はいずれまた書くことにしたい。


(以下引用)



政府に問う「誰の主権がとのように回復されたのか」


 今日4月28日は「主権回復の日」で、天皇、皇后両陛下も出席される初の式典が催されます。61年前の1952年のこの日に講和条約が発行したわけで、普通ならばお目出度い日であり、これまで大々的に式典が行われて来なかったこと自体、可笑しかったのです。

 しかし、実際には主権など回復していないのですから、誰も真面目に祝う気になどならなかったのです。安倍は歴史に関して疎いようですし、余り関心があるようにも見えませんから、誰かに命じられるままに突っ走っているのでしょう。

 靖国神社参拝問題でも中韓から文句を付けられていますが、これは両国の前近代性にも問題がありますし、神社祭祀を誤解している面も多分にあります。しかし、戦前の出来事について何ら総括して来なかったこの国の有り様が最も大きな問題で、これが外交の足枷となっています。

 明治維新後、大日本帝国は朝鮮半島から満州、東南アジアへと進出しましたが、その目的と実情は如何なるものであったのか、誰の責任なのか、そうした追及は公的には全くなされていません。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)がありましたが、純法理的にはこれは無理筋の裁判で、単なる復讐心に法的な彩りを施したものに過ぎません。その欺瞞性については、インドのパール判事が余すところなく論じています。

 この辺は保守派の言う通りでしょう。では大日本帝国の海外膨張が全て防衛的なものであったかというと、これはどんなに言い繕っても無理です。国内的教育観点から戦前を美化するのはどこの国でもやっていますから、自虐史観を子供たちに教え込むのはどうかと思いますが、学問的政治的に封印してしまうのは行き過ぎです。

 何故こんなことになってしまったかと言えば、日本人特有の事なかれ主義もありますが、天皇家の存在に触れざるを得ないからでしょう。本当のことを追及すると、昭和天皇を批判的に扱わざるを得なくなります。

 この国では古来、天皇家がまつりごとの中心に位置していますから、天皇の権威を傷付けるわけには行かないのです。そうするとどうしても、有耶無耶の内に誤魔化すことになります。

 戦後になって軍部は解体されましたが、それに代わってやって来たのが米軍で、「日米安保体制」ということになっていますが、実情は戦前の大日本帝国と変わりません。米軍が皇室を守っているわけです。(誰から守っているかは、各自で考えて下さい)

 法理的には、大日本国憲法から日本国憲法への転換は革命を意味します。憲法学者の宮沢俊義は、そう解するしかないと述べていますが、どういうわけか天皇は元首のままです。日本国憲法上明記されていませんが、外国大使の接受などは天皇が行うと定められていますから、少なくとも外国から見たら元首に外なりません。

 胡錦濤前主席が天皇の訪中などに拘ったのは、天皇を元首と見ているためで、日本の総理大臣は格下として扱っています。だから首相の温家宝に専ら相手をさせたわけです。

 官僚組織も戦前のままで、内務省は解体されましたが、厚労省などの各省に分割されただけで実情は余り変わっていません。財務省(旧大蔵省)は全く無傷のままで、最近まで統制経済を続けていました。

 戦前の体制は未だに続いているのですが、それを主導したのはもちろん昭和天皇です。米軍駐留(占領)も、天皇の意思であったことが明らかにされています。沖縄の人たちが悪感情を抱いているのは尤もな話なのです。

 筆者は皇室の存在を否定しているわけではなく、この国の要として必要だと思います。我国は、天皇家を中心として回るように宿命付けられています。ただ、戦前の総括はきちんとなされなければなりません。誤魔化したままでは到底未来は拓かれません。

 同じ敗戦国のドイツは、ナチス時代を「狂った例外的な時代で、本来のドイツではない」として全否定しています。ご都合主義ですが、こういう理屈にしないと責任を追い切れないので止むを得ません。

 我国でも司馬遼太郎がこうした論法を採っていますが、これを採用するかどうかはともかく、何らかの総括は必要です。そうしないと外交摩擦はこの先も絶えませんし、この国の人心も荒んでゆくことでしょう。大人が過去の古傷を見ないようにしていたら、子供は健全には育ちません。

 最後に、参考までに東京新聞の本日付の社説を引用します。今日という日を考えさせる内容です。(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013042802000135.html)

   週のはじめに考える 日本の真の独立を思う

 きょう二十八日は主権回復の日。天皇、皇后両陛下も出席されての初の式典開催ですが、沖縄の当然ともいえる反発があっては虚心にはなれません。 

 サンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日はどんな日だったか。データベースを検索して当時の新聞各紙を読み比べると、歓喜と不安が交錯する日だったことがわかります。

 六年八カ月の軍事占領からの解放。中日新聞(当時中部日本新聞)は一面に「雲ひらく」と題した横山大観画伯の大きな多色刷り富士山頂図を奮発しています。

◆歓喜と不安交錯の記念日

 朝日新聞は天声人語の「二つの日本に分割されなかった幸い」や「有史以来初の主権在民の独立国になったのである」に高揚感を漂わせます。「自主独立が外交の基本」-夕刊紙だった東京新聞はこの朝の吉田茂首相と内閣記者団との一問一答を掲載しています。

 不安は東西冷戦に由来します。五〇年六月、北朝鮮軍の砲撃から始まった朝鮮戦争は、死者四百万~五百万人、その大半が一般市民という凄惨(せいさん)な事態となりますが、まだ休戦に至っていません。講和も旧ソ連や大陸の中国との締結のない単独講和でした。

 中日新聞に「独立に想(おも)う」を寄稿した社会学の清水幾太郎は「アメリカのソ連包囲網の一環になったまでのこと。新しい大戦の危険は大きい」と不気味な予言。「八千五百万人の日本人が独立の気力をもって現実に働きかければ」と期待しました。「共産主義が歴史の必然」ともいわれた時代。世界の行方などわからないものです。

 講和条約と同時に発効した日米安全保障条約によって、西側陣営に立ち、反共の砦(とりで)の役割を担うことになった日本。戦後社会をけん引したのは吉田首相の軽武装・経済重視の「吉田ドクトリン」路線でしたが、最近の昭和史研究や豊下楢彦前関西学院大教授の「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)は、外交、防衛、安全保障面で昭和天皇の果たした役割の大きさを明らかにしています。昭和天皇の沖縄メッセージや講和条約交渉への天皇の介入は、沖縄の運命や日本の防衛や安全保障に決定的だったように見えます。

◆沖縄の犠牲に支えられて

 沖縄メッセージは四七年九月、天皇御用掛の寺崎英成氏が連合国マッカーサー総司令部に伝えた極秘メッセージ。天皇が米軍の沖縄占領継続を希望し、占領は長期租借(二十五年ないし五十年、あるいはそれ以上)で-などの内容。七九年の文書発掘は沖縄に衝撃を与え、その後、入江侍従長の日記で内容がほぼ事実と確認されたことで、沖縄の人々は大きく傷ついたといわれます。

 豊下前教授はダレス米国務省顧問を相手にした講和条約、安保条約交渉でも、吉田首相と昭和天皇の二重外交があったことを論証しています。当時の天皇にとっての脅威は朝鮮半島にまで迫った共産主義でした。共産主義から天皇制を守ることは日本を守ることでもあったのでしょう。戦争放棄の憲法と非武装となった日本で天皇が頼ったのは米軍、それが沖縄占領継続の希望や基地提供でした。

 そこにはパワーポリティクスや外交的駆け引きの余地はなく、ダレスに対日交渉での当初からの目論見(もくろみ)「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利の確保」を勝ち取らせることになってしまいました。およそ独立にふさわしくないこの条約は、今も日米地位協定の不平等のなかに潜まされ、変えられていません。

 講和条約三条で沖縄は本土から分離され米国の施政権下に移されました。講和条約や安保条約の成立過程の検証は、本土の独立が沖縄の一方的犠牲の上に築かれていることを教えます。

 沖縄への理不尽は、世界一危険な普天間飛行場移転問題に集約的に現れます。沖縄の四十一全市町村長の反対にもかかわらず、政府は県内の辺野古移転を変えません。米軍の移転候補基地の比較衡量で満点は「本土の自衛隊基地」。辺野古への固執は本土移転回避の政治的理由としか思えません。

 日米安保の重要性は否定できません。それなら負担は国民が等しく、本土でも米軍基地を引き受けていくべきです。憲法改正に声高な政府や政治家が日米地位協定改定には及び腰なのはなぜか。国民のために当たり前のことを主張し要求していくのが独立国の政府、正しいことに勇気をもって立ち向かうのが独立国の国民。

◆日本全体で考える

 昭和を継いだ今上天皇の沖縄への思いはことに深いようです。昨年十二月の七十九歳の誕生日のお言葉は「日本全体の人が沖縄の人々の苦労を考えていくことが大事」でした。沖縄こそ真の主権回復の一歩にしたいものです。








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コメント

1. 特攻隊について

はじめまして。いつもブログを楽しく読ませていただいています。
今回沖縄に対する天皇の責任について読ませて頂き、勉強不足の私には大変勉強になりました。

ただ、天皇の戦争責任で特に私が思うのは、特攻隊についてです。
彼等のことを思うと、私は天皇(天皇というより天皇制でしょうか)に対して非常にもやもやした怒りがわきます。

若くして(というか子供)天皇のために(建前だと思いますが)散っていった命を思うととても悲しくなります(バンザイしながら尿を漏らしながら突っ込んでいった彼等の事をです。本当は自分の家族のため突っ込んだんだと思います)

何が悲しいかと言うと、それについて天皇の口から言及されないと言う事です。
まぁ、それは言えないのでしょうけど、天皇が個人プレーするわけにはいかないでしょうし。

でも、個人的感情からすれば、今の天皇を見ても、そんな歴史を曖昧で有耶無耶で不条理な事をしてきた上で成り立っている天皇制を、大切な歴史の一部だから政治は関係ない日本の象徴だからと敬う事は出来ません。
日本人の事を本当に考えているのでしょうか?

私は、歴史的に大切に残すべき素晴らしいピラミッドもあれば、そうでないピラミットもあると思います。

また新しいピラミッドを作り歴史として残しても良いのではと思います。

私は今の天皇制には疑問も多いので反対ですが、もし尊敬できる天皇が現れたなら、その時は日本の象徴として敬いたいとお思います。今のままなら存続に賛成できない派です。今の日本人を見ていると少数派でしょうが・・・。

誤字脱字申し訳ありません。ただの一個人の意見です。



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