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徽宗皇帝のブログ

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官僚の温床としての教育制度
「池上技術士事務所のブログ」から転載。大前研一の本の紹介の一部である。
大前研一は政治的には胡散臭い人物で、新自由主義者の一人だが、ここで述べていること自体は正しい。こういうように、一人の人間が個々の問題ごとに正論を言ったり、愚論や嘘を言ったりするから、他人の言葉をそっくり鵜呑みにはできないのである。
要するに、我々は他人の言説に対しては「是々非々」で行くしかない。
信頼する人物でも、時には馬鹿な発言をするし、嫌な人物でも時には正しい事を言う。行動も然りである。完璧に正しい行動ばかりをする人間はいない。いたら聖人だが、イエスだってブッダだって誤った行為もするし、誤った発言もする。ソクラテスや孔子だってそうだ。ましてや凡人である我々ならなおさらだ。したがって、他人の失敗や愚行をとがめるべきではないのは当然だ。
我々は、意図的悪行や犯罪的行為に対してだけ批判をすればよいのである。特に、それが集団的システム化されている場合には、やっている本人たちが無意識的であることが多いので、意図的悪行ではないが、その結果が社会全体に大きな被害を及ぼす犯罪的行為となっており、より悪質である。
官僚による国民搾取や官僚権益保護システムなどがそれである。
その官僚連中は、試験秀才にすぎないから現実の新しい問題を処理する能力が欠如していることが多い。新しい問題には試験とは違って「最初から与えられた正解」は無いからだ。彼らにとっては数学ですら「正解パターンを暗記する」だけの暗記行為であり、その異常な暗記能力によって一流校に進学してきただけなのである。つまり、単にパソコンに置き換えられる程度の人材でしかない。それに多少の弁舌能力があればいいわけだ。
そういう連中が日本を「リードしてきた」わけだが、彼らの無能さにもかかわらず、国民全体の学業水準が高く、勤勉であったために、日本はこれまで発展してきたのである。
「兵士は優秀だが下士官や将帥は無能」というのが日本の近代軍隊の特徴だが、これは国家全体の特徴でもあったわけである。
そのすべての淵源は教育にある。


(以下引用)

6.日本では教師が文部科学省の作った学習指導要領に沿って答えを教える。用意した答えでないと「それは間違っている」と指導され、答えをきちんと覚えたかどうかをテストでチェックされる。その上、偏差値で序列をつけられるのだから、自由な発想力や決断力は伸びようもない。この繰り返しが、自分では何も「考えない」人間を作り出してきた。
7.答えや手本がある20世紀型の工業化社会はそれでよかった。均質で機械的に動ける、考えない人間が大量に必要だったからである。今や答えがあるものに関してはインターネットで検索すれば即座に誰でもわかる。答えのない問題に取り組むことに重きが置かれる時代に突入している。
8.答えのない時代に必要なのは考える力であり、決断力や判断力、そして行動力である。世の中に出たら100%の正解などない。たとえば今、日本円で貯金すべきか、ドルで貯金すべきか、ユーロで貯金すべきか、正しい答えはわからない。しかし情報を集めて判断することはできる。あらゆる情報をもとに、総合的な判断ができるかどうか。それが社会に出て、世界に飛び出して必要とされる能力である。答えがない世界で果敢にチャレンジできる人材を育てることが教育に求められている。ゆとり教育を見直して授業時間を増やしても、それは過去の詰め込み教育への回帰でしかない。それで取り戻せる学力があるとすれば、かつての工業化社会に適応した能力に過ぎない。そんな人間は中国やインドに日本の何十倍もいるし、給料も10分の1でやる気満々の連中が沢山いる。日本の従来の学校教育にそぐわなかった人間を昔の偏差値教育で再教育しても日本に将来はない。

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