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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

我々は今「経済戦争」のさ中にある。
「阿修羅」所載の植草一秀のブログ記事だが、現在の日本の諸問題が総花的に挙げられていて有益である。
我々はふつう一時に一事しか考えられない脳を持っているから、大変な事態が一時に起こると混乱して思考停止状態になる。今がその「大変な事態」なのであり、いわば「政府と国民の戦争」あるいは「上級国民(支配層)と下級国民(被支配層)の見えない戦争」という事態と言えるだろう。経済戦争だからそれが戦争であることが見えない、特に敵の姿が見えないのである。

(以下引用)


すべてを疑うことから始める
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-6cdb25.html
2022年11月29日 植草一秀の『知られざる真実』


防衛費の増額が論議されている。


同時に原発稼働推進が論議されている。


コロナではワクチン接種が推奨されるとともに接種証明制度使用が強行されている。


注意を払わないとメディアの情報誘導に流されてしまう。


日本の安全保障環境が急激に悪化しているから防衛費増大は必要不可欠だ。


電力不足が警戒され、現在の状況を放置すれば電力料金の大幅引き上げが避けされない。


コロナ対策としてワクチンは有用であり、旅行支援事業などにワクチン接種証明制度は必要不可欠だ。


こんな議論が流布される。


注意を払わないいと、こうした情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。


しかし、実態はまったく異なると思われる。


日本を取り巻く安全保障環境が急激に悪化しているのだろうか。


仮に悪化しているとして、その原因はどこにあるのか。


その原因を創り出したのは誰なのか。


電力不足が叫ばれるが、急に状況が変わったのか。


電力不足を招かぬ対応策がこれまでしっかりと取られてきたのか。


太陽光発電の利用が制約されている原因に送電線網の開放がなされていないという事情はないのか。


原発が推進されるが日本における原発は安全性が確保されていると言えるのか。


政府やWHO、あるいはCDC(米疾病予防管理センター)はワクチンを熱烈推進しているが、ワクチンにリスクはないのか。


ワクチン接種実施後に懸念される事態は発生していないのか。


12歳以下の子ども、5歳以下の乳幼児にワクチンを接種する意味があるのか。


リスクとメリットの適切な比較衡量が行われているのか。


全国旅行支援の利益供与を受ける条件としてワクチン3回接種証明の提示が定められているが、ワクチン3回接種にどのような科学的意味があるのか。


疑問点が山積している。


SNSを中心とした情報空間では、とりわけワクチンに関する言論に対して不当な統制が行われている。


ワクチンリスクやワクチンの有効性に疑問を呈する情報流布に強い制限がかけられている。


こうした言論統制の状況が正しいと言えるのか。


すべてを疑う必要がある。


日本を取り巻く安全保障環境の悪化が指摘されるが、日中関係悪化の分水嶺になったのは2010年9月7日の尖閣海域中国漁船衝突事件である。


中国漁船と海上保安庁巡視艦が衝突し、日本当局が中国漁船船長を逮捕した。


この事件発生を契機に日中関係が飛躍的に悪化した。


この事件が発生した直接の原因が何であったのか。


正確な事実を知る国民は少ない。


結論を要約して言えば、事件発生の原因は、日本政府が中国政府との合意を一方的に破棄して、尖閣海域の中国漁船取締り方式を変更したことにある。


日中両国政府は1972年の国交正常化の際に、尖閣領有権問題が存在することを確認し、その解決を将来に先送りすることで合意した。


この合意に基づいて日中漁業協定が締結された。


日中漁業協定では尖閣海域の相手国漁船の取締りは外交ルートを通じた注意喚起によることとされた。


ところが、2010年6月8日、菅直人内閣は「尖閣諸島をめぐる領有権問題は存在しない」とする閣議決定を行った。


海上保安庁はこの閣議決定に従い、尖閣海域の中国漁船取締りを日中漁業協定基準から国内法基準に変更した。


この変更によって中国漁船衝突事件を創作したのである。


人為的に緊張関係が創作され、その緊張関係を大義名分にして防衛費増強が論じられている。


こう考えると、因果関係が逆であることを疑わざるを得ない。


つまり、防衛費増大を誘導するために安全保障環境が人為的に悪化されているということ。


原発稼働を推進するために電力不足や電力料金引上げが創作されている。


こうした仮説が説得力を持つことになる。


メディアが主導する論議に根本からの疑いをさしはさむことが重要。


歴史作家の塩野七生氏は


『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)


のなかで、


「ルネサンスとはすべてを疑うこと」


と記している。


私たちにいま求められていることは「すべてを疑うこと」である。

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