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徽宗皇帝のブログ

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西側の困窮は田中宇の言う「意図的自滅」か、「単なる馬鹿」か
「櫻井ジャーナル」記事で、後半は古い話が多いが、私のように中国現代史に疎い人間だと、かえって勉強になって重宝する。
習近平体制が続けたロックダウンは江沢民の上海閥との権力闘争だったのかもしれない。新コロ自体は西側の陰謀だろうが、それを逆手に取ったわけだ。で、今ではその強硬なロックダウンを西洋マスコミが批判する有様であるww  まあ、中国のロックダウンに伴う「工業生産縮小」によって痛手を受けたのは主に西側諸国である。ウクライナ戦争を煽ったのも西側諸国で、そのダメージを受けているのも西側諸国だ。まあ、馬鹿の極みである。

(以下引用)赤字と太字は徽宗による強調。

2022.12.02

 
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 江沢民が11月30日に死亡した。中国共産党の中央委員会総書記を1989年6月から2002年11月まで、国家主席を1993年3月から2003年3月まで、中央軍事委員会首席を1990年3月から2005年3月まで務めた人物で、上海市を地盤としていた。その上海市で党委員会書記に就任したのは1985年11月で、その後ろ盾は汪道涵。その父、汪雨相は中国同盟会の元老だった人物だという。



 その上海では今年4月から5月にかけてロックダウンが実施され、人びとの行動は厳しく制限され、中国だけでなく世界の経済に影響を及ぼした。その背景には中国の「ゼロ-COVID」政策があると言われているが、これには奇妙な点がある。



 中国の武漢でSARS(重症急性呼吸器症候群)に似た症状の肺炎患者が見つかったのは2019年12月31日のこと。中国で伝染病対策の責任者を務めている疾病預防控制中心の高福主任は2020年1月22日に国務院新聞弁公室で記者会見を開き、武漢市内の海鮮市場で売られていた野生動物から人にウイルスが感染したとする見方を示した。



 高福は1991年にオックスフォード大学へ留学、94年に博士号を取得し、99年から01年までハーバード大学で研究、その後04年までオックスフォード大学で教えている。つまりアメリカやイギリスと深い関係にある人物で、NIAID(国立アレルギー感染症研究所)所長を務めてきたアンソニー・ファウチの弟子とも言われている。



 COVID-19騒動が始まる直前、2019年10月にニューヨークでコロナウイルスが全世界で流行するという​シミュレーション「イベント201」​が実施された。このシュミレーションはジョンズ・ホプキンス健康安全保障センター、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、そしてWEF(世界経済フォーラム)の主催で行われたのだが、それに高福も「プレーヤー」として参加している。



 本来なら高福がCOVID-19対策を指揮するはずだが、実際は中国軍の陳薇が責任者に選ばれ、2020年2月から指揮している。彼女は2002年から中国で広まったSARSを沈静化させた人物で、その経験に基づいてインターフェロン・アルファ2bを試したところ今回も有効だった。



 この医薬品はリンパ球を刺激して免疫能力を高める働きがあるとされている。吉林省長春にも製造工場があり、中国の国内で供給できた。今回の件で中国の習近平国家主席はキューバのミゲル・ディアス-カネル大統領に謝意を述べたと伝えられている。



 要するに安全性を確かめていない「ワクチン」を使う必要などなかった。また「感染確認」に利用されているPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査が無意味だということを中国政府も知っているはずで、ロックダウン政策を医学的な理由から行なっているとは思えない。



 欧米もCOVID-19騒動が始まるとロックダウンを推進している。人の動きを制限し、経済を麻痺させ、社会を破壊する政策を批判する人は少なくなかったが、無視していた。



 今年1月にWHO(世界保健機関)は緊急会議をジュネーブで開き、​パンデミックなど危機的な状況下では全ての加盟国にWHOが命令できるようにすることを討議​。パンデミックの宣言は恣意的にできるわけで、恣意的に各国へロックダウンを命令できるということになる。WHOは西側の私的権力に支配されているわけで、その私的権力が世界各国政府をコントロールできることになるわけだ。ロックダウンが大好きな西側の支配層が中国のロックダウンを批判するのはなぜなのか?



 アメリカやイギリスの私的権力は自分たちの利権を守り、拡大するためにターゲット国のエリートを買収、恫喝、暗殺、そしてクーデターで体制を倒してきた。クーデターの際、配下のメディアを利用してプロパガンダを展開、政党や労働組合などに抗議活動を行わせて社会を不安定化させる。1980年代以降、そうした工作を行うためにCIAはNGOへの影響力を強め、自らの団体も設立してきた。



 米中の国交が正常化したのは1970年代。1972年に選挙を控えていたリチャード・ニクソン大統領は71年7月に中国訪問を発表、72年2月に中国を訪問した。当時のアメリカ政府は泥沼化したベトナム戦争から抜け出そうともがいていたが、そのタイミングで中国の強硬派が台湾を攻撃しようとしているとアメリカ政府は懸念していたほか、アメリカと中国が接近することで中国とソ連との関係を悪化させようともしていただろう。ニクソンが中国を訪問した7カ月後に田中角栄首相が中国を訪れて日中共同声明に調印したが、これはアメリカ支配層の逆鱗に触れる行為だったはずだ。



 民主党内では1972年の大統領選挙で党の候補者に選ばれた反戦派のジョージ・マクガバンを落選させる運動が始まる。その中心になったのがヘンリー・ジャクソン上院議員で、同議員の事務所がネオコンの育成機関になっていた。



 ニクソンはフィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領の協力をえて中国へ資金を提供(Sterling & Peggy Seagrave, "Gold Warriors", Verso, 2003)、中国をレッセフェール流の資本主義路線、いわゆる新自由主義へ誘導していく。日本を含む西側ではこの新自由主義化に「民主化」というタグをつけている。



 しかし、中国は金融、通貨発行権、教育、健康など社会基盤を構成する分野をアメリカの私的権力へ渡さなかった。中国が急速に経済発展できた理由はここにあると言われている。逆のことをした日本は衰退してしまう。



 新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが1980年に中国を訪問、88年には妻を伴って再び中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談する。



 その間、1984年に鄧小平を後ろ盾とする趙紫陽はホワイトハウスでロナルド・レーガン米大統領と会談、88年に「経済改革」を実施するが、これは深刻なインフレを招いて社会は不安定化、胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥る。それに対してエリート学生は「改革」の継続を求める。



 エリート学生は新自由主義で甘い汁が吸える立場にあり、彼らは投機家のジョージ・ソロスともつながっていた。学生の活動を指揮していたと見られているのはジーン・シャープだ。



 しかし、学生の要求は認められず、1987年1月に胡耀邦は総書記を辞任、89年4月に死亡した。その死を切っ掛けに天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれることになる。同じ頃、ソ連でもクーデター計画が進んでいたことは本ブログでも書いた通り。



 西側では6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名が殺されたとされているのだが、これを裏付ける証拠はなく、逆に広場での虐殺を否定する証言がある。



 例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)



 学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)



 西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信を見たというAFPの話を流したのだ。



 しかし、これはドナルド大使自身が目撃したのではなく、「信頼できる情報源」の話の引用。その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できる。



 また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官カルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで、群集への一斉射撃はなかったと話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)



 イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)



 アメリカは各国に設置した大使館を工作の拠点に使っているが、天安門事件当時の大使、ジェームズ・リリーはCIAの幹部である。1989年4月に中国駐在大使として赴任した彼は1951年にCIA入りしたと言われているが、1946年に軍隊を離れてエール大学へ入ったときにリクルートされた可能性が高い。それが通常の手順だ。



 リリーはジョージ・H・W・ブッシュと親しかったが、このブッシュは退役して帰国した1945年に結婚、そのころにエール大学へ入っている。そこで親しくしていたボート部のコーチだったアレン・ウォルツがCIAのリクルート担当だったことはすでに書いた通り。ブッシュはそのウォルツからCIAへ誘われたと言われているが、父親とアレン・ダレスはウォール街時代からの友人で、子どもの頃からジョージは情報機関入りすることが決められていたかもしれない。



 ブッシュはCIA長官になる直前、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務め、1989年1月にアメリカ大統領に就任した。そして信頼しているリリーを大使として中国へ送り込んだということだろう。



 天安門広場での抗議活動が沈静化した後、学生の指導者たちはイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのはCIAとMI6だ。吾爾開希はハーバード大学で学んだ後、台湾へ渡って独立運動に参加している。



 ジョー・バイデン政権が江沢民の死を利用して中国を混乱させ、親米体制へ転換させようとしていたとしても驚かない。

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