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徽宗皇帝のブログ

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戦争捕虜もまた犯罪者である
藤永茂博士のブログ「私の『闇の奥』」記事である。
藤永博士を私は素晴らしいヒューマニストだと思うが、私がそのあまり良い読者ではないのは、その真面目な思考の緊張に耐えられないのである。私がドストエフスキーを大好きな理由は、その抜群のユーモア感覚にある。ユーモア感覚とヒューマニズム(深い人間知に基づく)と哲学(神学)と或る意味大衆小説(たとえば推理小説)的な、あるいはメロドラマ的なドラマ性の絶妙な融合がドストエフスキーだ。しかし、たいていの「真面目な人」の文章は私には「疲れる」。それはもちろん、読むこちらが悪いのである。読む資質に欠けているわけだ。頭の体力が無い時には読めない。
下の文章は、久しぶりに読んだ藤永博士の記事だが、やはり素晴らしい内容だ。多くの人の目に触れる価値がある。だから転載する。
赤字にした部分についての私の意見は、一般人への殺戮をした兵士が捕虜になった場合、その捕虜は殺されて当然である、というものだ。それが上官の命令に従っただけだ、という理屈は、その「犯罪」を正当化しない。戦争で許されるのは兵士を殺すことだけだ。捕虜となった兵士に危害を加えてはならないというジュネーブ協定は偽善の最たるものだと私は思っている。
要するに、戦争が始まったとたん、戦争参加国のすべての人間は「犯罪者」になる、と言ってもいい。銃後の、市井の人である「この世界の片隅に」の鈴さんもまた戦争被害者であると同時に戦争加担者という犯罪者なのである。

(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。


『しかたなかったと言うてはいかんのです』

2021-09-09 22:47:14 | 日記・エッセイ・コラム

 9月4日の夜、NHKのBSで『しかたなかったと言うてはいかんのです』というタイトルのドラマが放映されました。初回の放映は8月13日だったようですが、気が付きませんでした。このドラマは「九州大学生体解剖事件」として知られる実際に起こった出来事に基づいています。この事件についてはウィキペディアに詳しい記事があります:


https://ja.wikipedia.org/wiki/九州大学生体解剖事件


このドラマに出演した、いずれも福岡県出身の俳優妻夫木聡さんと蒼井優さん、二人とも台本を読むまで事件を知らなかったそうです。


 事件は終戦の日も近い1945年の晩春に起こりました。3月末から始まった凄惨な沖縄戦は6月末まで続き、米軍と日本軍の戦火に巻き込まれ、集団自決の悲劇も含めて、10万人以上の沖縄県民間人が亡くなりました。5月5日早朝、米空軍爆撃機B-29 多数が福岡市を含む北部九州に飛来して爆撃を行い、これを迎え撃った日本空軍の戦闘機によって、2機のB-29が撃墜され、搭乗員たちは阿蘇山地域にパラシュートで降下しましたが、その2名は地元住民によって殺されました。生き残った捕虜11人のうち、機長一名は東京に送られ、残りの10人は西部軍司令部が裁判なしに死刑に処することにしましたが、そのうちの8名が福岡市の九州(帝国)大学の医学部に連れてこられて、石山福二郎主任外科部長(教授)の主導の下で、生きたまま解剖研究の対象にされました。実施の期間は5月17日から6月2日と記録されています。


 6月19日から6月20日にかけて、福岡市はB-29による大空襲に見舞われ、市民千人以上が死にました。私の一家は助かりましたが、親友のお姉さんが焼夷弾の直撃を受けて亡くなりました。この空襲で母親を失った陸軍将校が、その復讐の想いに駆られて、生体解剖を免れて生き残っていた2名を含む8名の米軍捕虜を、空襲直後の6月20日、市内の女学校校庭で斬首の刑に処しました。「西部軍事件」です。


 長崎原爆投下の前日、8月8日午前、福岡市から南に伸びる西鉄大牟田線の電車の上りと下りの2車両が、飛来した米空軍戦闘機からの機銃掃射を受け、約100人が射殺されました。車内は血の海であったと伝えられています。


 さる9月4日の夜、NHKの終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』を見はじめた私は、1分も立たないうちにテレビをオフにしてしまいました。ドラマでは九州帝国大学ではなく「西部大学」となっていましたが、九州帝国大学物理学科に入学して終戦を迎えた人間として、「九州大学生体解剖事件」についての記憶は長く重く、ドラマを視聴し通す苦痛に耐えられない予感がして、テレビを切ってしまいました。記憶の始点は遠藤周作の小説『海と毒薬』でした。私はこの小説に、また、この作者に複雑な思いを持ち続けています。私は信仰者ではありませんが宗教には、とりわけ、キリスト教には強い関心を持っています。先日にも言及したトーマス・マートンとアルベール・カミュへの関心もその一部です。この二人の影響のもとで、私は個々の人間の罪の意識の問題よりも集団としての人間たちが行う戦争という罪悪の方により強い問題意識を抱いています。


 2008年11月29日、九州大学医学部で日本生命倫理学会第20回年次大会が開催され、九州大学医学部の笹栗俊之教授が組織されたシンポジウ『戦争と研究倫理』に、私も参加させて戴きました。そこで東野利夫さんが「いわゆる『九大生体解剖事件』の真相と歴史的教訓」という表題で講演をされました。東野利夫さんは、私と同じ1926年生まれ、医学生として生体解剖に立ち会い、事件現場で起きたことの詳細を世に伝える仕事に最大の貢献をした方です。事件当時、私は九大理学部物理学科の一年生になったばかりでしたから、東野さんは補助員的な身分で生体解剖に参加されたのであったろうと思います。東野さんには幾多の著書がありますが、最終の著書のタイトルは『戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない』(2017年)でした。2021年4月13日に95歳で亡くなりました。


 シンポジウム『戦争と研究倫理』では私も『原爆と科学者の倫理』と題する講演をさせて戴きました。講演では、戦争という状況下で、科学者は何をすべきか、やろうと思えば何ができるか、という問題に、まぶしすぎるような答えを私たちに与えてくれた物理学者ジョセフ・ロートブラットの物語を致しました。その時の私の講演原稿から引用します:


「ロートブラットはポーランドの首都ワルシャワで1908年に生まれました。1938年ワルシャワ大學で博士号を得て、翌年には英国のリバプール大学のジェームズ・チャドウィックに招かれて、その研究グループに入ります。チャドウィックは中性子(ニュートロン)の発見者で、1935年、ノーベル物理学賞を受賞していました。1944年の始め、チャドウィックは英国の原爆開発チームの長として米国のロスアラモス研究所に移りましたが、ロートブラットもその一員としてロスアラモスに入り、チャドウィックの家に寄宿していました。ロートブラットは妻と娘をワルシャワに残したままでした。1944年3月のある夜、マンハッタン計画の総指揮官グローブス将軍がチャドウィック家の夕食に招かれてやって来ました。その夕食の席でグローブスが、まるで分かりきった事の様に、「原爆を作っている本当の目的はソヴィエトを制圧することだ」と発言したのに、ロートブラットは強いショックを受けます。当時、ソ連軍はヨーロッパの東部戦線で多大の出血犠牲を払ってナチス・ドイツ軍と死闘を続けていた“味方”であったのですから。ナチス・ドイツを打倒するために原爆製造に参加していたロートブラットにとってグローブスの発言は大変なショックでした。1944年の暮れ、ドイツでは原爆の開発は進んでいないことが確認された時、ロートブラットはロスアラモスを去って英国に帰りたいとチャドウィックに申し出ました。事は一筋縄では行かず、紆余曲折があったのは勿論ですが、チャドウィックの努力が実を結び、その年1944年のクリスマス・イーヴにロートブラットは英国に向かって旅立ちました。開けて1945年5月7日ドイツ降伏、7月6日ニューメキシコ州中部で世界最初の原爆炸裂、8月6日広島、9日長崎、15日日本降伏、と歴史は進みました。やがてわかった事ですが、彼がポーランドに残した妻と娘はアウシュヴィッツで亡くなっていました。 


 英国に戻ったロートブラットは学問の方向を原子核物理学プロパーから放射線医学に変更し、1950年、ロンドン大学のホスピタル・メディカル・カレッジの物理学教授に就任します。1954年3月1日のビキニの水爆実験の死の灰が第五福竜丸に降りかかりましたが、その死の灰の中にウラン237をいち早く検出したことでもロートブラットは知られています。彼は核兵器と戦争の絶滅を目指す運動に身を捧げ、バートランド・ラッセルを助けてパグウォッシュ会議の書記長を17年にわたって勤めることになります。彼の極めて多岐にわたる核兵器廃絶運動については、インターネット上に豊富な資料がありますのでご覧ください。1955年、ロートブラットはノーベル平和賞を受賞しましたが、受賞講演の中でヒポクラテスの宣誓に言及しています:「今や、ヒポクラテスの宣誓の様な形で、科学者が倫理的に振舞うためのガイドラインを明文化すべき時がきた。これは今から科学者としての生涯を始めようとしている若い科学者たちに特に有益であろう。」


 しかし、科学技術の職業に従事する人々が非倫理的行為を行わないように、ヒポクラテスの宣誓のような誓いを立てさせるというアイディアの有効性を、私は強く疑います。とりわけ、戦争という事態の下では、よほど強靭な精神の持ち主でなければ、そうした宣誓が要求する立場を取れないと考えるからです。ロスアラモス研究所には博士号持った所員が数百人は居たでしょうが、ジョセフ・ロートブラットのような勇気ある人物は彼一人しか出ませんでした。


 では、倫理に反する戦時研究に巻き込まれないようにするには、どうすれば良いか? この重要な問題に対する最善の解答も、実は、ロートブラットによって与えられています。1985年、原爆投下40周年記念の年に彼が書いた記念論文の最後の段落に次のようなことが書いてあります:「40年たった今も、一つの疑念がしっこく私の心につきまとっている。あの時犯した誤りを繰り返さないように我々は十分に学んだであろうか? 私は自分自身についてさえ確信が持てない。絶対的な平和主義者ではない私は、もしあの時と同じような状況になったら、自分が前と同じように振る舞う事はないと保証をしかねるのだ。我々の道徳観念は、一度軍事行動が始まれば、ポイと投げ捨てられてしまうように思われる。だから最も重要なことは、そうした状況になることを許さないようにすることである。我々の一番の努力は核戦争の阻止に集中されなければならない。何故ならば、そうした戦争では、道義だけではなく文明の組織全体が消滅するであろうからだ。究極的には、しかし、我々はあらゆる種類の戦争をなくしてしまうことを目指すべきであろう。」(講演原稿からの引用終わり)


 危機的状況にしっかりと取り囲まれてしまった後で、倫理的行動に徹することは私たち凡人にとってはとても難しいことです。誰もがジョセフ・ロートブラットになれるわけではありませんし、それを自らに期待すること他人に要求することも誤りであると、私は、考えます。現在の米中対立の状況、特に台湾の問題を思う時、私たちは、戦争を阻止するために、日本政府に対して、米国に対して、中国に対して、今こそ、私たちが持っている勇気の限りを奮って、直言し反省を促すべきであると考えます。今ならば、まだ出来ます。


 NHK制作の終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』に話を戻しましょう。


「生体解剖」を行なったとして、石山福二郎教授はじめ5名の関係者が横浜の軍事法廷で戦犯として絞首刑の判決を受けましたが、石山教授は獄中で自殺し、九大関係者として石山教授に次ぐ地位にあった鳥巣太郎助教授は、その後、恩赦によって釈放されました。


西日本新聞の記事:


https://www.nishinippon.co.jp/item/n/783471/


によれば、ドラマは鳥巣太郎氏の生涯の「事実に基づくフィクション」です。鳥巣氏は「(戦争中だから)しかたなかったと言うてはいかんのです」と、軍や教授の命令に逆らえず医の倫理を踏み外したことを晩年まで悔い続けていたそうです。


 


藤永茂(2021年9月9日)


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