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徽宗皇帝のブログ

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日本の「伝統的」戦争思想
「リュウマの独り言」というブログ(最近、あちこちで引用されている)から転載。
管理人氏の文章ではなく、そこに編集引用された文章だが、日本軍という世界でも稀な「鬼畜軍隊」の実態を見事に描いている。この種の文章は、終戦後には膨大に出てきたものだが、最近の若者の多くはそういう文章を読んでいないと思う。だからネトウヨの言葉に簡単に騙されたり、「永遠のゼロ」に感動したりするのだろう。
私が日本史の中でも一番嫌悪しているのが、下の文中に出て来る辻正信であるが、今の自民党代議士や東電の歴代社長も似たようなものではないか。
まあ、下の文章でも読んで、「戦争に行かない若者は利己主義で自分中心だ」という武藤代議士のあの発言を思い返せば、なかなか感慨深いものがあるのではないだろうか。


(以下引用)



  ガメ・オベールの日本語練習帳より編集引用
               

GDPと三八式歩兵銃


 日本の関東軍は、すでに1939年、ソビエト極東軍の実力を過小に評価して、攻め込んでみたBattle of Kahalkhin Gol (ノモンハンの戦闘)で、実はソ連の機甲師団と圧倒的な砲兵を中心とした陸軍には逆立ちしてもかなわないのを知っていた。 ノモンハンはすさまじい戦いで、戦車で押し寄せるソ連軍に対して、日本兵は、ひとりひとり円匙で散兵壕を掘って、三八式歩兵銃と火炎瓶で立ち向かうしかなかった。 この作戦を立案して強行した辻政信中佐と主任参謀服部卓四郎中佐のコンビは、責任をとるどころか、卑怯な行為があったと上申して、作戦のデタラメさを報告する可能性があった前線の師団長や連隊長に自殺を強要して殺して口をふさいでしまい、「ノモンハンは大勝だった」ことにしてしまう。

 日本語の本には「航空戦も勘案すれば負けたとはいえない」とロシア人が聞いたら北海道に攻めてきそうなことを書いてあるのがいくつもありますが、 ここでは戦線にいた兵士のひとりが戦後に残した証言を引用しておくのにとどめます。

「ああ、しかと見たよ。ソ連軍の戦車が数百台単位で十六連隊に襲いかかってね、ひどい光景だった。目の前が火の海でさ、こっちの三十連隊は助けようにも助けられなかった。 もともとね、十六連隊が突出したのは命令違反なんだ。当時の連隊長・宮崎繁三郎大佐の判断なのか分からないけど、はっきり言って自業自得だよ。関東軍の独断専行はある種の伝統とはいえ、陸軍中枢の命令を無視したんだからね。  不思議と宮崎中将の評伝に『ノモンハン唯一の勝利者』なんて言葉が躍っているけど、現場を目撃している人間から言わせれば、どこが勝利者なんだと首をひねってしまう。戦車の下敷きになって悲鳴を上げている日本兵を何人も見ている俺は、 『日本軍はノモンハンで大負けしたんだ。誰も彼もが』  と、絶叫したいくらいだよ。同郷の新発田歩兵第十六連隊はノモンハンで全滅したんだ、間違いなく」」

だから「ソ連軍あらわる」の報に、民間人に通報することもせず、「算を乱して」、ほんとにこれが軍隊だろうか、と言いたくなるみっともない姿で、その自慢の全機動力を挙げて、脱兎のように逃げ出してしまう。 翌年にはふたりとも栄転して、辻政信はマレーに赴き、 シンガポールで中国人集団虐殺「Operation Sook Ching」を指揮して、フィリピンでは米軍捕虜を処刑するように口頭命令を伝えて歩き、ポートモレスビーでは作戦の研究を命じられたのを好機として、作戦研究を実行命令に変更して軍隊を進発させてしまい、(←軍隊組織においては、補給がないことを意味している)、お互いの人肉を食べあう地獄の戦場に兵達を送りこむ。

自分たちを守ってくれるはずだった軍隊と政府の役人はまっさきに逃げてしまい、後に取り残され、財産といえば腕時計に至るまでロシア兵たちに奪われた日本人たちが見いだしたものは、ロシア兵の暴力と、土地を奪われた怒りから敵意をもって日本人入植地を取り囲みはじめた中国人たちの軽蔑と憎悪の視線でした。

 戦争のあとになって、「南方に兵力を引き抜かれたから戦えなかった」「本土決戦のために満蒙開拓団の民間人の犠牲をやむをえなかった」と、恥知らずというか、どこの国の敗兵でも言えない言葉を平然と述べて、その軍人や新興財閥と結託していた岸信介は、アメリカとの密約のもと、戦犯を収容した刑務所から娑婆にでて、驚くべきことに首相にまでのぼりつめる。

 日本語インターネットをみていると、その岸信介の孫である人が「海外邦人を守るためには法律改正は仕方がないのだ」と述べていて、ああ、この人のおじいさんも、同じことを述べていたのだったなーと思い出す。

 残された日本人たちは哀れどころではない。  -- ロシア人たちと話していると、いまでもあんまり変わらない文化だなーと思わなくもないが、--  軍隊そのものがロシア人たちにとっては「悪徳の暗闇」で、「戦争にいけばやりほうだい」という考えがある。

 勇敢でさえあれば人間性を保持しなくてもいいというようなところがあって、日本人たちの町を襲い、夜になればウォッカを片手に、民家のドアを蹴破って入り、妻や娘を夫の目の前で代わる代わる強姦して、日本企業の独身寮をみつけると、若い女達をつれだして、自分たちの兵舎で朝まで強姦してパーティを開くのが夜毎のことだった。  妻を助けようとした夫は、無論、容赦なく殺されました。

 こういう無責任な軍人たちが跋扈した理由は、ヘンなことを言うと、本来どこの国でも、数字に還元していえば、要するにGDPをあげるためにやっていた悪行を、日本の人だけは「肩で風を切るため」にやっていたことで、日本がその「防衛」のために国家そのものの破滅に追い込まれた満州が巨大な赤字を垂れ流して終わったように、傍で見ていて、いったいなんのために戦争をしているのか、まったく理解できないところが日本の歴史の不気味さであると思う。

 戦争がカッコイイから戦争をやっているのさ、とでもいうような、日本独特の、悲壮美に酔いたいだけの気味の悪さがある。 もう長くなりすぎたので、このくらいにしておくけど。

 日本兵が格闘戦にたけていた、というのは日本軍自身がつくりあげた神話で、いったんつかみあいの白兵戦になると、やはり体格の問題なのか、「まるで女の子のように簡単に殺された」と、なんというかサイコパスのような証言を海兵隊員が残している。
日本兵がなんとか対等に攻撃できたのはバヨネット (銃剣のこと) による刺突までで、これに失敗すると、日本の軍隊に特有の銃床の使い方を教えない格闘術 (後部に菊の紋章が入っているので) にも原因があるのでしょう、あっけなく殺されて、いろいろな国の兵隊のなかでも日本の歩兵は、文字通りの「rifleman」だった。

 -- 城山三郎の戦争ちゅうの思い出を書いた文章のなかだったとおもうが、銃を粗末にしたといって天皇陛下に謝れと徹底的に殴られ、半殺しにされて、兵営を脱走したあげく自殺する少年兵の話がでてくる。 結局、城山三郎たちは海底に突っ立って「竹槍の先に爆薬をくくりつけたような」奇妙な爆弾をもってアメリカの艦艇を待って、船底を突き上げて自爆するための訓練に明け暮れて、夜は毎夜殴られつづけて、もし奇跡が起きて生き延びられたら、日本のような国は絶対におれが滅ぼしてやる、と思い詰めるところへまで追いやられる。--

 日本陸軍の特徴は、当時、どこの軍隊でも普及していたMP40(ドイツ)Thompson(アメリカ) Sten (英連邦)のようなサブマシンガンを採用しなかったことで、理由は「弾薬の使用量が過剰になるおそれがある」ということでした。  一丁の短機関銃で30発の弾丸を撃つよりも30人の歩兵で狙いをさだめた30発のほうが、戦死者は多少増えても軍隊として効率がよい、という理屈でサブマシンガンどころかオートマティックライフルの採用にも熱心でなかった。  (引用終り)

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