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徽宗皇帝のブログ

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日本は再生できるか
だいぶ長い間ブログ更新が滞っていた「反戦な家づくり」が久しぶりに更新された。その一部を転載する。
記事の内容は、小泉以後の日本と世界の総括である。日本を現在の極度の格差社会にし、人々から人生への夢と希望を奪った小泉と竹中は何度死刑にしても飽き足らない人間だが、日本人の中で彼らの犯罪的行為を理解している層がどれだけいるのか心もとない。まずは彼らの罪を弾劾することが日本再生への出発点になるのではないか。

「忘れっぽさ」というのが日本人、いや人間の根本的欠陥である。その習性を利用するのが「操縦者」たちだ。政治経済の権力者と、その実行者である。
アメリカでは、戦後70年以上がたっても毎年のようにユダヤ人迫害を題材にした映画を作り、しつこくユダヤ人受難を自らの地位保全に利用する富裕層がいる一方で、わずか10年前の9.11すらもはや過去の出来事として無関心な一般大衆がいる。支配者は賢いだけではなく、粘り強いのである。彼らは物事を長期的に考えることができる。一方、一般大衆は忘れっぽい。だから支配されるのだ。
怒りの持続と、敵をどこまでも追い詰める意志が必要なのだ。
しかし、政府によって捨てられた福島や東日本の住民が怒りの声をあげることすらしない日本で何が変わろうか。国家によってすべてを奪われた人々は、なぜ立ち上がって行動しないのか。
日本国民には怒る能力すら無いのか。怒るよりも、権力の分け前に与る方が賢いと、権力の尻尾にすがりつく方を選ぶのか。そしてわずかなおこぼれを貰って満足するのか。この奴隷根性こそが、現在の国家的悲惨の根本原因ではないのか。

革命や変革の成果の分け前には与りたい。しかし自分が革命の犠牲になるのはいやだ。これが大多数の人間の下司根性だろう。誰かが動いて事態が改善されるのを待っているのだ。先頭に立って銃弾に当たるのは御免こうむる、ということである。そういう連中のためになぜ自分が先頭に立って犠牲になる必要があるだろうか? 誰でもそう思う。だから、革命は始まらないわけだ。かくして日本はどす黒い不満のマグマを下に湛えながら、表面的には平和そのものの社会が維持されている。
歴史の事実は、確かに、戦いの先頭に立つ人間の犠牲は、まったく報われない、ということである。戦いで死んだ人間の功績を、戦いで生き残った連中が分け合うわけだ。しかし、誰かが先頭に立たないと戦いはできない。
政治的な戦いなら、その先頭に立つ使命を持つのが、本当なら野党政党なのである。ところが野党自民党こそが日本没落の最大戦犯なのだから、もはや既存政治に何が期待できようか。
軍隊も警察もすべて、国民をではなく権力を守る装置でしかない。
かつての2.26は国民の疲弊を救う意図からの決起だった。今の自衛隊の中にそのような人間が一人でもいるだろうか。
一人の人間が諸悪の根源ならば、一人一殺のテロで問題を解決することもできる。しかし、社会システムによる悪は、システムを変えることでしか改善されない。それには時間がかかるだろう。しかし、その間にも福島や東日本で、いや、日本全国で、生計の手段を失って生活が窮迫し、死を目前にしている無数の人々がいるのである。

事態の改善は容易である。
すべての日本人を即座に幸福にすることは簡単だ。
そしてそれは誰にも迷惑なことではない。
政府が日銀に命令して紙幣を大増刷させ、それを必要とする貧しい人間、窮迫した人間に分配すればいいだけのことだ。それをしないと、絶望からのテロがこの従順な羊の国でも起きる可能性はある。

(以下引用)

■■こんな時代だから

6年前に、「こんな時代の家づくりは生き抜くためのたたかいだ」というサブタイトルで「家を建てる。」という本を出版した。サイドメニューでしつこく宣伝しているやつだ。
あの当時の「こんな時代」とは、象徴的にはコイズミ改革といわれた苛烈な弱者切り捨てであり、9.11を口実にしたアフガンとイラクへの戦争の始まりだった。

たしかに、あのころから日本は急展開していた。なんやかんや言って、皆が食える社会から、相当数の国民が食っていけない社会へ。不平等ながらも富を再配分する社会から、少数のものが独占する社会へ。
対外的にも、アメリカに庇護される国から、アメリカに搾取される国へ。米軍の浮沈空母から、米軍の打ち出の小槌に。

その大転換、急激な貧困と将来不安は、「国民の生活が第一」を掲げた民主党による政権交代の底流になった。圧倒的な国民の声が、生活防衛、生活再建に向かった。
まるで革命的な変革が、議会制民主主義の枠の中で成し遂げられたかに見えた。

しかし、それは一瞬の夢であり、圧倒的な反革命のパワーの前に成立と同時に崩壊を始めた。最後の逆転のチャンスと思われた昨年秋の民主党代表選で、過半数の民主党議員は反革命の勢いに恐れをなし、最初から白旗を揚げた菅直人を首相に押し上げてしまった。この時点で、議会制民主主義という枠内で「国民の生活が第一」に立ち戻る機会は、失われた。

議会制民主主義に期待できなくなったそのころから、日本人がながらく封印してきた「デモ」という方法を思い出した。既得権益・官僚機構の暴力装置として小沢氏に襲いかかった検察にたいする怒りが、千人を超えるデモとなって、東京や大阪で街頭にあふれ出した。
選挙という間接的な表現を超えて、国民が直接表現を始めた。

その事態を決定的にしたのが、3.11の震災だ。震災への対応の酷さ、なかでも原発事故へのウソの上にウソを積み重ねる政府の態度は、「国民の生活が第一」どころか、被災者は邪魔者と言わんばかりのものだった。まさに、棄民ということばがピッタリとくる。
その一方で、東電を庇護し、原発の再稼働を急ぎ、辺野古の建設に執念をもやし、八ッ場ダムは再開をうかがい、増税で国民から収奪したあげくに、豪華な国家公務員宿舎に何百億ものカネを惜しげもなく注ぎ込む。

国民の圧倒的な期待を背負った民主党政権が、自民党よりも酷いありさまになり果ててしまったことに、ついに6万人の怒りが街へ登場した。
9.19のこの大集会は、いよいよ時代が次の段階に入ったことを示している。もう、おカミに期待し、頼っていては生きいていけない。そのことを自覚して動く時代が始まったのである。

もう誤魔化しようがないほどに利害が対立し、直接に対決するしかない時代。これを、内乱の時代という。
3.11を経て9.19をもって、日本は内乱の時代に入ってしまったということだ。それが良いことなのか良くないことなのか、早計に判断はできない。
だが、そういう妥協やゴマカシではどうにもならないし、おカミは調整していくれるどころか、おとなしい者から順番になけなしの権利もカネも奪っていく。それに我慢できない者が、一定の割合を超えて直接行動を始める。そういう内乱の時代に入っていることは間違いない。

これはどうやらアメリカも同じ事情のようだ。オバマが圧倒的な期待を背負って大統領になり、しかし貧困はますます進行し、いよいよアメリカ人も堪忍袋の緒が切れて、ウォール街を占拠し始めた。それ以前からも、保険制度の問題などで、各地で市役所を占拠したり大デモが起きたりしていた。

もし、というか おそらく、日本でもアメリカでも、こうしたデモや直接行動を高圧的に押さえ込んでくるだろう。よりいっそう情報を隠し、むき出しの利権あさりに励むだろう。これが、とことん進行してしまうと、最後の最後は軍事独裁政権のようなモノも言えない圧制か、アフガンのような内戦状態になってしまう。

そこまで行き着くのかどうか。
それが、これから数年という時間に問われている。

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