忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

日本人の精神年齢
私はこのブログで、日本を変えねばならないと常に言ってきたが、それは今のままでは国民のほとんどが不幸なままだと思うからだ。自分が受け取った時よりも、少しはましな状態にして未来世代にこの社会を引き渡すことが、大人の務めだと私は考えている。ささやかな言論活動でも、未来を変える可能性はあるだろう。

前にも書いたと思うが、アメリカ独立戦争を勝利に導いたのは、実は「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」というパトリック・ヘンリーの言葉ではなかったかと私は考えている。なぜなら、人は思想によって行動するものだし、思想とは言葉だからだ。武器の量や質、あるいは兵力よりも、自由のために死を賭しても戦うという意志が、独立戦争の勝利につながった可能性はある。もちろん、現代の大量殺戮兵器の前では個々の兵士の勇気など無意味だが。

いずれにせよ、言葉の持つ力はそれほど大きい。これも前に書いたことなのだが、若い頃の私は自殺をよく考えたが、その度に「人生は自殺に値するほどのものじゃない」という冗談で自殺を逃れてきた。もう一つ、「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉も私を支えてきた。
だから、私は言葉の力、思想の力の巨大さを信じているのである。国家という共同幻想、金という共同幻想も言葉で作られてきたものだ。

しばしば言われることだが、日本では国民が革命(変革)の主体であったことはない。常に、「上からの革命」しかなかったのである。
明治維新は武士の一部による革命だったし、太平洋戦争敗戦後の大変革はアメリカの指示によるものだった。明治維新で日本は西欧文明の末端に組み込まれ、文化が激変した。そして日本の伝統的心性は失われた。第二次大戦後の「民主化」で日本は一応は「民主主義国家」となった。そしてそれと同時に、過去のすべては克服されるべきもの、投げ捨てられるべきものとなった。今の日本人は、過去の伝統から切り離された、別種の日本人である。今更韓国文化によるテレビ・マスコミ汚染を騒ぐまでもない。いずれにしても、それらの変革は常に「上からの変革」であった。
庶民には、政治に参加できるだけの知性がまだ育っていなかったのである。
マッカーサーが、「日本人の精神年齢は12歳である」と言ったのは、まったく正しいのだ。問題は、日本人自身がその言葉の正しさに気付いていないことなのだ。
自分の精神年齢が12歳であるとわかれば、それなりの対処はできる。だが、自分が大人のつもりでいると、他人(外国)にいいように騙されるだろう。
要するに、過去の日本人は民主主義を実行する能力も頭脳も知識も無かったのである。教科書で日本は民主主義国家だと言われるからそう信じていただけだ。教科書をそのまま信じるところが「精神年齢12歳」なのである。マスコミに踊らされるままに政治家を軽蔑し、「何をやってもどうせかわらないさ」と、冷笑的にふるまえば大人らしいと思っているだけの子供だ。

下記記事は「いつでも崖っぷち」ブログからの転載である。崖っぷち社長は、「自分の頭で考えることができる」数少ない人間の一人だ。彼がこれほど親切に日本人に警告してくれているのに、まだ日本の危機の本質が分からない人間が日本人のほとんどだろう。だが、幸いなことに、ネット上には社長のような賢人が少なからずいる。そうした人々の発言を読むことができるというだけでも、日本が変革する可能性はある、と私は信じている。


(以下引用)


いずれにしても、自民党を中心とする原発利権屋連中にとって、菅直人が邪魔だったことは間違いない。
しつこいようだが、菅直人自身は脱原発でもなんでもなく、人気の取れそうなほうにフラフラ流れる風見鶏みたいなもんで、だからこそ、民意に近い方に流れることがあったというだけのことだけどな。

というわけで、菅直人を総理の椅子から引きずり下ろすことになったのは、この連中の行動によるものであって、我々国民の声でもなんでもない。
我々国民が勝利したわけでも、民意が通ったわけでもなんでもないのだ。
このこと、国民ひとりひとりが真剣に考えなきゃならんとおいらは思うよ。

というわけで、この機会に考えなきゃならんのは、じゃあ、連中はなにを狙っているのかってことになる。

前からこのブログで主張してきたことだが、政治というのは、カネの奪い合いであって、それそのものが利権争いだという当たり前のことを認識してもらいたい。
ついでに言えば、見かけと事実がまったく違うことも山のようにあり、ケンカしているように見えても実は仲間どうしであるとか、蜜月のように見えてもテーブルの下で蹴り合いやってるようなことは、政界の日常茶飯事なわけだ。

そして、マスコミという存在もまた、情報を利用して仲間を潤わせるための利権機関にほかならない。
そのマスコミに出まくって、なにやら耳障りのいいことを言っている電波芸者系政治家も多数いるわけだが、そのこと自体を疑ってかかるべきだ。
もちろん、マスコミに出てようと出てなかろうと、政策の裏にある思惑ってヤツを、私利私欲の視点であぶり出していくのも重要なことだ。

それらを踏まえた上で、いま起こっているさまざまなことを考えると、連中の思惑はもちろんのこと、これからどうするべきかという点も見えてくる。
そのヒントになるのは、郵政改革法案と東電の扱いだとおいらは思うね。

そもそも、なんのために郵政が民営化されたのか、そこを考えるべきだ。
まずこの話の前提となる話を書こう。
民営化という言葉の意味がわかるかい?
このへんがよくわかってない連中が多いのだが、民営にしてコストを下げるとか効率をよくするなんて話はただの枕詞で、ハッキリ言ってまったく無関係だ。

民営化ってのは、私物化ってことだからね。
国のカネで育ててきた事業を、民間法人にして、どっかの誰かさんたちが所有できるようにするということで、言ってみれば搾取のひとつの手段なわけだ。
まず、この当たり前の事実をみんな知るべきだろう。

郵政の場合、郵貯と簡保を合わせて約300兆円もの預かり資産があるとされている。
これがもし、どこかの誰かに株を買い占められたなら、そのカネは運用という形で好きなように使うことができるわけだよね。

ただ、実はこれは枝葉の話で、もっと重要なのは、郵政こそが日本国債の大量引受け機関であるということだ。
日本の国債をドエライ量握っている金融機関が、どっかの誰かの私物になることの意味がわかるかい?
国債の価値はもちろんこと、日本の政策についてもコントロールできる武器をくれてやるってことだからね。

これと同じような話が、実は東電などの電力10社の話なのだが、東電憎しの感情値の高まりとともに、この重要な部分がすっかり見逃されている。
それは、電力会社が所有している送電線という資産だ。

とくに、みんなの党が主張していることだが、東電を破綻処理させ、送電線などの資産を売り払えば、5兆円からの賠償資金ができるなんて話がある。
まあ、それは事実ではあるが、じゃあ、その送電線を誰に売るんだってのが問題になるわけだ。

なんせ、みんなの党の政策ってのは、非常に聞こえがいいのだけど、裏を返せば国富の切り売りバーゲンのオンパレードのようなところがあり、おまけに郵政民営化も推進派だ。
今回の震災復興財源についても、「政府が所有する株式を売れ」なんて、国富献上としか思えないことを抜かしてたしな。
ハッキリ言って、新自由主義者の手先でしかないし、こいつらが発言力を増すことによって、日本はすってんてんにされてしまうだろうね。

送電線を金融屋連中に握られたらどうなるか、考えてみるまでもないだろ。
それこそ、どれだけ送電料金を巻き上げられることになるかって話なわけだ。

それに関連する話として、電力自由化と発送電分離という話が出てきている。
発電と送電の会社を分けてしまい、自由に電力会社として参入できるようにしようという話だ。

まあ、おいらは必ずしもそれがいいとは思ってない。
確かに、日本の電力料金はものすごく高いが、世界ではその逆に、自由化によるコスト削減でメンテが行き届いていないのとか、設備がえらい老朽化しているのとか、電圧や供給が安定しないような例も山のようにあるんでね。
せいぜい、自家発電とかその方面の規制緩和に留めるべきと思ってるけどね。

というわけで、東電も含め、あらゆる電力会社はすべて国有化、というのがおいらの主張だ。
宣伝活動もマスコミなどへの関与も禁止し、利益はすべて国庫に納入という方式でな。
つまり、電力会社の利益は国民のものであり、同時に損失(今回の賠償のような話な)も国の負担という、ごくごくあたり前のスタイルに変えるべきと思うわけだ。

そういうことを書くと、「いつの時代の人間だ?」だとよく言われるんだがね、時代なんてまったく関係ねえというか、時代という言葉でいいように操られてるヤツが多いなあと思うんだがね。

で、次に必ず言われることもわかってるんで、先まわりして書いておくさ。
それじゃ、官僚の力が強まるとか、原発利権温存するのかって話だろ。
言いたくないが、この手の議論から抜け出すことができない連中によって、日本の国益はメチャクチャ犠牲になっているのだ。

まず、最初においらの態度を改めて書いておこう。
ここを何度も読んでいる人なら知ってると思うが、あたくしは基本的に官僚を否定していないし、その考えは今後も改める気はまったくない。
ちなみに、原発については完全否定だ。

それを踏まえた上で、この国がよくならない原因ってものを書いてみよう。

原発をなくそうでもなんでもいい。
そういう民意を国政に反映させるためにはどうしたらいいのか。
それは、当然のように、政治という力を使うしかない。

しかしながら、その政治という力が非常に脆弱だ。
法案を考えるのも、そのための準備作業をするのも、意思決定するのも官僚のやっていることだからな。
これは確かに事実で、霞が関文学みたいな、都合よく恣意的に解釈できるようなものがあるなんて話まであるくらいだ。

じゃあ、どうしたらいいのかって考えてみたことがあるかい?

そんなもん、我々側の政治家に力を持たせるようにするしかあるまい。
政治家が自分のブレーンで情報収集から検証まで行ない、政策を立案して議会にかける、これくらいのことができるようにならなきゃ、民意を反映するなんてできるわけがあるまい。
それが、あんな歳費と秘書給与くらいでできるわけがないし、だからこそ官僚に頼らざるを得ないわけだ。

そこまで考えるなら、政治家のカネがどうこうなんてプロパガンダにダマされるほうがどうかしてるってことだ。
官僚がいやがっても法案を押し通すくらいの豪腕を求めるなら、徹底的に政治家にカネを集める方法を考え、それを国民が当然のこととして支持するくらいにならなきゃならんだろ。

そのためには、国民は政策にうるさくならなければならないし、マスコミや検察がやってるような妨害工作に対する耐性もつけなきゃならんし、法律にも精通しなけりゃならない。
官僚や政治家はもちろん、民間人のなかにもいる、国民からみて敵対する利権の連中を排除するためには、国民の理解とバックアップが絶対に必要なのだ。

言いたくないが、これを実現するなんてどだいムリだとおいらは思うね。
もとより無関心層という奴隷は問題外だし、それなりに関心がある層でも、新自由主義とデフレによって貧富や階級の格差による妬みと憎しみにとらわれてしまっていて、目の前にある大事なことがまったく見えてない人ばかりだからな。
カネの正体も、国富や財政の現実も知らないし、だからこそ、財政再建や増税、国富切り売りのプロパガンダにダマされるのだけどな。

前にそういう議論をしたことがあるのだが、日本という国は、いままで一度も共和国として国家形成された歴史がない。
共和国がなんであるかということすら知らない人も多い。
どういうことかと言えば、国が国民全員の所有物であり、国民の総意によって国家が成立していることを言うわけだ。

日本国憲法に国民主権がうたわれようがなんだろうが、国民に国家の所有意識がまったくないのではお話にならない。
極論を言えば、官僚を非難するのはお門違いだと思うくらいだ。

自分の利益になってることは無視し、都合の悪いことは全部あいつらのせい、「霞が関は大バカだ!」って、そりゃ、菅直人となにが違うんだって話だろ。
小沢さんの言葉じゃないが、「政治家のレベルは国民以上にはならない」のだよ。

だから、むしろ中央の政治家と官僚を、徹底的に法律でがんじがらめにする代わりに優遇しまくったほうがいいんじゃないかとあたくしは書いてきたのだ。

だいたいさ、カネを刷り散らかしてる連中に大金くれてやる、為替介入なんぞを絶賛しながら、「撒く相手が違うだけ」の税金還元政策を非難してるような連中ばかりだろ。
民営化すればなんでもよくなるって、無料化のための資金まで積んであった高速道路をどっかの誰かにくれてやりながら、無料化はおかしいとか抜かしてるのとか。
テメエだけでなく、大半の国民が大損こいてることにまったく気づいてねえってんだから笑わせる。

しまいにゃ、エネルギーやカネのような、国の根幹に関わるものまで、作られた美しい話に乗せられて献上しようってんだぜ。
どこまで愚民なんだと。

少なくとも、次はまともな総理大臣を選ぶように、国民が声を上げねばなるまいよ。
まさに正念場なんだぜ。

自民党やみんなの党など、存在自体が我々の敵としか言いようのない連中、こいつらがこの間やってきたのは、民主党内にいる乗っ取り組というか別働隊と示し合わせて、国民側の利権に立った政策をまるごと蹴散らし、国民が選んだまともな政治家を排除させ、野党でありながら政府を都合よく操ろうということなのだ。
これはまさに利権闘争なのだよ。
この連中と一緒に動いてるヤツらが、当然のように官僚機構のなかにも、民間人のなかにも、マスコミにも外資にも金融屋にもいるし、そういうヤツらの台頭を、国家の主権者である我々は決して許しちゃならんわけだ。

繰り返すが、我々は菅直人を引きずり降ろせなかった。
だが、今度、我々がまともな総理大臣を選べなかったら、その瞬間になにもかもが終わりなのだ。
いまがもっとも大事なときなのだ。

2009年の衆院選で民主党が大勝したとき、笑顔がまったくなかった有力政治家がいただろう?
まさに我々はその心境にならなきゃならん時期じゃないのか。

菅直人が消えると喜んでる場合じゃないんだぜ。


拍手

PR

コメント

コメントを書く