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徽宗皇帝のブログ

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明治維新の虚像と実像
「播州武侯祠遍照院」ブログに素晴らしい記事が載っていたので転載する。
明治維新ほど謎と矛盾に満ちた出来事は無い。そして、現在の日本が形成されたのが、その明治維新の結果である。明治維新の正体を知らずして、現在の日本を正しく考察することは不可能だろう。
ところが、学校教育の中で習う明治維新は謎と混沌に包まれているのだから、たいていの人は思考放棄、思考停止に陥るのが常である。つまり、御用学者による「定説」と大衆小説家による「歴史小説」と称するフィクションをほとんど歴史的事実だとして終わりにするのである。
下の「山伏 太賢」氏による明治維新解釈は、私が不可解に思っていた明治維新の謎を余すところなく見事に解明している。私自身は(無数の映画や小説の影響で)明治維新のヒーローたちが大好きだったから、そのアイドルたちの醜い実像を知るのは正直言って悲しいのだが、日本人全体がこの「明治維新の虚像」を乗り越えないかぎり、新しい日本は生まれてこないだろう。その意味で、下の文章は多くの人に読まれてほしい文章である。
なお、私自身は「尊皇攘夷」主義者であり、またフェビアン協会的な「漸進的社会主義者」であるから、下記文章の筆者とはまったく反対の思想的立場にいるものだが、それはそれ、これはこれ、である。



(以下引用)





「維新」と云う幻想




山伏 太賢さまのブログより転載

「明治維新」とは一体どこからが維新なのか、そして「維新」の本当の意味を御存知だろうか?

またこの時使われた様々なスローガンの本当の意味を改めて検討したいと思う。

○1853年 黒船来航。

断って於くが先ず明治維新の勝者は長州藩であり、明治新政府はその長州藩が作ったと云うこと。

この時点で多くの史実は明治新政府(長州藩)に都合の良いように作り変えられており、江戸幕府や他の諸藩は悪役であるように伝えられているということである。

「 腐敗の為に不満の溜まった諸藩によって江戸幕府は既に崩壊寸前だった」

「 無為無策で統治能力を失った徳川幕府に代わって薩長等の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した」

これらのことは江戸幕府を悪役にする為の 真っ赤なウソである。

従って黒船来航以来様々な事件は起きるが、まだまだ日本は安泰であった。

◎「開国」と「攘夷」

先ず黒船が来航し開国を要求した。この時に持ち上がった「 開国」とはどう云う事なのか。

分かり易く云えば

「 国民と自由に貿易をさせろ」

と云う事である。

 これによって諸外国は、国を弱体化させる為の物資を、それが麻薬でも最新式銃火器であろうと、いくらでも売ることが出来るようになる。

そしてタダ同然の食糧を長期にわたって輸入し国内の食糧生産業界を破綻させ、その後価格を通常に戻せばよい。

もうその国は、輸入に頼らなければ生きていけない国になる。

そして輸入品を買うと云うことは、日本の金が海外に流れると云う事である。

そしたら最終的には日本人は海外資本の奴隷に貶められることになる。

それが「 開国」である。

断って於くがこの「 開国」は「先進技術導入」では無い。

つまり「先進技術導入の為には日本が進んで植民地にならなければならない」と云う意味である。

即ちこの「 開国」とは「植民支配受容」と云うことである。

これに対するのが「 攘夷」。

「攘夷」とは夷人(いじん)を攘う(はらう)と云うことで、「外国人を見たら斬って斬って斬りまくれ!そしたら怖くなって二度とやって来ようとは思わないだろう」と云うこと。

つまり「海外勢力を武力で追い出せ」と云う事である。

情報が乏しいその当時の人々がどれだけ世界の動向を知っていたのか分からないが、直感でこの結論に至ったのであるなら我が国の人々の直感力には底知れぬものがある。

そもそもが艦砲射撃で威嚇して「 植民支配要求」を突きつけて来るような礼儀知らずな連中に、弱腰で接してどうするのか。

◎公議輿論と公議政体

公議とは公正な議論(公論)、輿論とは世間一般の議論(民意)のことである。そして、公議輿論派とは、公論や民意に基づいて政治を行おうとした人々のことである。

これに第一に着手し、抜群の政治手腕を発揮し獅子奮迅の働きをしたのが名宰相、首席老中阿部正弘である。

まず阿部老中は一般情報公開、庶民からも意見を公募し、御三家代表の前水戸藩主徳川斎昭を幕政参与に任じ、親藩代表の越前藩主松平慶永と外様代表の薩摩藩主島津斎彬を幕政の相談役として、全員参加の 民主的挙国一致体制を確立した。

この「情報公開による民主的対応」によって諸大名・幕臣のみならず、庶民からも多数の意見書が出され、後に「国民的議会主義への胎動」と評価された。

この公議輿論尊重の考え方の延長線上に公武合体論が展開され、さらにそれが西洋議会制度の知識で洗練されると、公議政体論が生まれてくることになる。

阿部老中が安政の改革で着手したことは、優秀な人材を登用し、海防技術を飛躍的に高め、徳川幕府の事だけでなく我が国の将来を視野に入れた偉大なる事跡であった。

安政四年、三十九歳の若さで没す。

○1858年 日米修好通商条約、
安政の大獄

○1860年 桜田門外の変

この日米修好通商条約に端を発する「安政の大獄」や「桜田門外の変」などは、水戸藩と彦根藩が十四代将軍の継承をめぐって跡目・派閥争いをしていただけで「維新」ではない。

そしてこの時点で幕府の威光がもともと衰えていたのなら、こんな過激な争いにはなっていなかった筈である。

常識で考えても倒産寸前の会社の社長の座を巡って争う者はいないであろう。

従って未だ幕府は安泰。

実際、彦根藩の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の徳川斉昭が亡くなると、両藩とも維新の歴史に関わらなくなって来る。

○1862年 公武合体

◎公家たちの尊皇

黒船来航から始まった世情不安のなか、天皇を担ぎ出して幕府と対立し、日本の内戦を誘うような動きが過激公家から出てきた。

この過激公家たちから出た「尊皇」とはこの混乱を機に幕府から権力を奪うためのスローガンで、幕府や諸藩が天皇に対して「尊ぶ」と云う意味と違う。つまりこの時点での公家たちの「尊皇」とは「幕府は自分達の下に就け!」と云うこと。

◎公武合体論

この状況に対処するべく天皇家と徳川家の婚姻を実施し、公武の分裂と対立を未然に防ごうとした。

それが和宮降嫁による「 公武合体論」である。

公武合体論とは、朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である

そもそも幕府を弱体化してどうやって攘夷すると云うのか。

攘夷にしても、外交で立ち回るにも、日本が一丸となって立ち向かわなければどうしようもない。

それに孝明天皇は将軍家茂を深く信頼していた。

だからこそ孝明天皇は公武合体に賭けたのである。

そしてこの公武合体はそのまま幕権強化論の一部となる。

◎幕権強化論(佐幕)

攘夷論で外国人を威嚇するのは良いが、相手が引き下がらなかったらどうするのか?

長く続いた太平の世とは云え幕府は専門戦闘集団である武家の元締めであり、将軍は武家の棟梁である。冷静に戦略を立て国家総動員で長期戦の構えでいれば決して負けることは無かったであろう。戦国時代には世界の銃火器の三分の一を我が国は保持していたのである。

しかし、そうなれば甚大なる犠牲が出るのは間違いない上、軍事技術が遅れていたのは事実であるし、何よりその最新式軍事技術や高性能銃火器を目の当たりにした幕府は、当然それを欲しがった。

その最新式軍事技術を手に入れ迫り来る外圧に対抗すれば、攘夷も可能になり対等に外交が出来る。

海外諸勢力をそれぞれ競合させることによって牽制させ合い、好条件に協力してくれる国を選び、最新式軍事技術を提供させる。

その為には外交窓口を幕府に一本化させる必要があり、幕府の権力を上げる必要がある。

それが「 最新武装技術導入+外交窓口一本化=幕権強化論」である。

つまり攘夷断行の為には最新式軍事技術が必要であり、その為には一旦は開国(決して植民支配受容では無い)し武力を高め、それを円滑に行う為に幕府の権限を強化すると云うことである。

実際に黒船来航から幕府は財政の総力を挙げ、死に物狂いで近代型海軍創設に当たり、十四年の歳月を掛け慶応三年には 対米七割の幕府海軍を整備した。

この頃から攘夷テロが散発し出すが、同年に発生した「寺田屋事件」は薩摩藩の名君島津斉彬の跡目を、島津久光が継いだことに端を発する薩摩藩のお家騒動である。

その島津久光にかかわる「生麦事件」は、日本人をナメきった不良英国人たちによる狼藉で、薩摩藩に非は無い。

従ってこの時点でも未だ幕府は健在、「 維新」でも無い。

ここまでのスローガンは

幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国

しかしこの年・・・

1862年の夏、上海から国家転覆を企む男がひとり、日本に帰って来たことから歴史の歯車が狂い出す。

即ち長州藩を過激な倒幕運動に導き、国際金融資本の手先として動いた男、 高杉晋作である。

ここからが倒幕テロリズム開始の年となる。

それに先立つ22年前、清国では英国との貿易の結果アヘン輸入量が増大、大量の銀が国外に流出したため、英国との貿易を禁止。これを不服とした英国は貿易保護を理由に軍隊を派遣した。アヘン戦争である。

敗れた清国は南京条約を締結し、英国に香港を割譲、上海・広東・アモイ・福州・寧波を開港した。

つまり香港を始め上海等は英国に本拠地を置く国際金融資本家たちの集合地帯となっていた。

この連中は世界のほとんどを植民地にし、アジアもインド・ビルマ・シンガポール等を支配下におき、アヘンを撒き散らし、略奪・虐殺の限りを尽くして荒稼ぎしていた者たちである。

そして当時清は「太平天国の乱」真っ最中で、「滅満興漢!」(満族から漢族へ)のスローガンを掲げ、そこかしこに打倒・清を目論んでいる連中がいた。

おそらく高杉率いるグループはここで国際金融資本家や打倒・清を目論む連中から革命思想でも吹き込まれたのであろう。

そもそも高杉の師匠、吉田松陰は易姓革命の理論的根拠となっている「孟子」を信奉していた。

つまりその松陰から薫陶を受けた高杉が革命思想に取り付かれるのも故無きことではない。

フランス革命も後のロシア革命もこの国際金融資本家たちが資金の提供元とされていることを考えると、さもありなんである。

○1863年 薩英戦争
     長州藩、外国船を砲撃
     八月十八日の政変

この薩英戦争は先の「生麦事件」の報復攻撃であるが、そもそも薩摩は英国と密貿易で儲けてきた藩であり、ただの仲間割れである。

一方、当時の長州の藩論の主体は「攘夷」であり、長州の外国船の打ち払いはこれが実行された訳である。

この長州藩の考えていた事は、漁業を妨害する外国船を打ち払い、攘夷を唱えていた孝明天皇の信を得ようという、自衛と忠誠心であった。

しかし当の孝明天皇は

「長門宰相の暴臣のごとき、その主を愚弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し実美らを本国に誘引す。」

とお怒りになるのだが・・・。

従ってこの時点での長州は「倒幕」ではない。

◎尊皇=倒幕

一方、高杉晋作ら過激派テログループの悲願は「倒幕」。 つまり攘夷なんかよりも、自分らが日本の政権を握ることに野心を燃やしていた。

いわば、高杉ら過激派の活動は、攘夷の邪魔にこそなれ、長州藩の思惑とはまったく関係のないところで動いていたわけである。

だからこそ、長州正規軍と高杉率いる奇兵隊は相容れず仲が悪い。

それは同年に起きた「教法寺事件」で、奇兵隊が長州正規軍を襲撃したことで表れている。

これも、そういった実情を考えれば不思議なことではない。

この過激派テログループの自分らが日本の政権を握る野望と、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。

いつの時代でも、世情不穏になるとその黒幕になって国家転覆を企むのは公家の伝統行事みたいなものである。

こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れることになる。

ここで確認であるが、「尊皇」と「攘夷」は本来別モノ。

「倒幕」を企むテロリストたちが、公家たちにそそのかされ掲げたのは「尊皇」、当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。

孝明天皇はこの倒幕派公家と過激派テロリストたちを危険視する。

当たり前である。

もう一度言うが、幕府を倒してどうやって攘夷するのか。

それで京都守護職松平容保公や薩摩に命じてこの愚か者どもを京の都から一掃することにした。

それが「八月十八日の政変」。

この辺りから攘夷テロによって治安崩壊に瀕していた京の都を勇猛果敢に守り、大活躍し始めるのが「新撰組」である。

次の年、「八月十八日の政変」で追い出された長州テロリストたちが、すぐにまた京都に集まって大規模なテロを画策する。

それを未然に防ぎ大打撃を与え、新撰組の名を天下に轟かすのが「池田屋事件」である。

この京都守護職松平容保公や新撰組が京の都を攘夷テロから守ってくれなかったらどれだけの死傷者がでたであろう。

○1864年 禁門の変
      下関戦争
      第一次長州征伐

長州藩は池田屋事件後すぐさま反撃に出て、あろうことか京都御所を包囲し総攻撃をかける。これが「禁門の変」である。

御所に向かって発砲するとは何と云う暴挙だろうか。しかも旗色が悪くなり逃げ出すのは良いが、京の都に火を放ち二万七千世帯を焼き払う無差別テロを起こす。

これで「勤皇の志士」とは聞いて呆れる。

これに激怒した孝明天皇、長州征伐の勅令を出す。それが「第一次長州征伐」である。

一方その頃、前年の長州からの砲撃で被害を受けた各国が英国を中心として連合艦隊を組織、報復攻撃へ出る。それが「下関戦争」である。

倒幕派中心グループが京都にいる間に仕掛けてくるとは、まるで共謀してたかのようである。

弱り目に祟り目の長州藩はこれではいけないと椋梨藤太たち保守派層によって藩内の倒幕派テロリストたちを排斥、藩体制の統一を実施し幕府への恭順を表明する。

討伐軍参謀を任されていた薩摩の西郷隆盛は、「禁門の変」の責任者である三家老を切腹させ、過激公家たちを長州から追い出し、何とか幕府にとりなす。

ここでやっと日本は統一された。決して腐敗して弱体化などしていない。

幕府は天皇と手を組み朝幕一体化し、幕権強化を成し遂げ、過激公家や長州藩のテロリストたちを鎮圧した。

これからも海外の諸勢力と渡り合っていける。

ここまでのスローガン

幕府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 佐幕+攘夷
長州= 佐幕+尊皇+攘夷
薩摩= 佐幕+尊皇+開国
公家= 尊皇+倒幕
テロ= 倒幕

問題はこの後・・・。

いよいよ「明治維新」の幕開けである。

○1864年 元治の内乱(維新前夜)

第一次長州征伐によって壊滅的打撃を与えられた高杉晋作や伊藤博文、公家三条実美たち過激派テログループが再び決起し「功山寺挙兵」でクーデターを起こし、椋梨藤太を中心とした保守派を排斥してしまう。それが維新前夜「元治の内乱」である。

ここからが「明治維新」の幕開けである。

このクーデターによって長州藩は完全に反日倒幕テロ組織、「新長州藩」となる。

すっかり国際金融資本の手先となっていた高杉晋作は藩政を掌握すると「開国」、これまで攘夷派が封鎖していた下関港を開港し外国船をどんどん迎え入れ、武器弾薬、外国製品で下関港は溢れかえった。

この辺りから今まですっこんでいた極悪人岩倉具視や武器密売人坂本龍馬、そして薩摩の売国奴たちが一斉に動き出し、時代は風雲急を告げる。

○1865年 米国、南北戦争終結。
○1866年 第二次長州征伐
薩長同盟 

ここでまた不思議な事に米国では、頃合を見計らってたかのように南北戦争が終結する。

後にその南北戦争で使われた武器を二束三文で買い叩き、薩長に高値で売りさばいていたのが英国の金融資本ジャーディンマセソン系列のグラバー商会である。麻薬貿易で暴利を貪った連中である。

そのパシリとなって暗躍した男こそ死の商人・坂本龍馬である。

その頃、薩摩のテロリストたちも動き出していた。

もともと薩摩藩論の主体は「佐幕」であり、「攘夷」ではない。

つまり、「開国」という悲願を内に秘めている。

そもそも薩摩は地理的に本土の末端であるということから、欧米との密貿易で藩政を賄い利益を上げていた。

薩英戦争などの遺恨は色々あったように見えるが、実は薩摩は初めから英国と手を結んでいたようなものである。

だから長州が「攘夷」から「開国」へ転身したところで利害が一致、それなら同盟を結んで自分たちに有利な新政権を立てることも出来ると考えた。

ここで薩摩は「開国」の為「佐幕」を捨て、「倒幕」に変節した。

長州と並ぶ二大反日藩、「新薩摩藩」の誕生である。

つまり薩摩も結局は日本の行く末よりも、自分たちの利益が大切であったのである。

その急進派の代表が、大久保利通と西郷隆盛である。

そして薩摩は長州の武器調達のため英国を紹介した。これを「薩長同盟」と言う。

一般的には「坂本龍馬が、薩摩と長州を結びつけた」と言われてるがそれは間違いで、正確には「薩摩が、英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介した」と云うのが正しい。


○同年、第二次長州征伐
      将軍家茂薨去

○1867年 孝明天皇崩御
         大政奉還

幕府はついに朝敵長州に「第二次長州征伐」を開始、薩摩は当然、出兵を拒否。

しかしこの途中、時代の波に翻弄され幕府の苦悩を一身に背負った悲劇の将軍家茂が21才の若さで亡くなり、幕府軍は撤退を余儀なくされる。

将軍就任以降打ち続く難局をなんとか乗り越え、さらに薩長+英国連合と云う幕府最大の危機に直面した、この真っ只中に病没した。

さらに悲劇は続き、翌年には36才の若さで孝明天皇が亡くなってしまう。

死因は毒殺である。

慶応二年十二月十一日から十六、七日に掛けて発熱し痘瘡(天然痘)によるものと典医一同診断す。

その後回復に向かうが二十五日一転して重体に陥る。

激しい嘔吐、下痢、下血を繰り返し、その日の夜十一時頃には「九穴より御脱血」の重症となり、のたうち回って苦しんだあと息を引き取ると云う、凄惨な最後であった。

明治維新にもっとも深くかかわった孝明天皇の研究は、維新から大東亜戦争終結まで約八十年間、タブーであったのは不可解なことではないだろうか。


歴史家の石井孝氏は法医学者の見解も求め、痘瘡が回復の時点で突如、病状が悪化したのは、砒素をもられたことによる急性砒素中毒であり、使われた毒薬は当時の砒素系の殺鼠剤「石見銀山」をあげている。

石井氏は

「孝 明天皇の毒殺説は没後ただちに広がり、サトウの自叙伝によると、明治初年(1868)には、半ば公然の秘密として語られてたらしい。しかし、戦前の天皇制 下にあって、痘瘡による病死が国定説とされ、毒殺説は国家権力によって禁圧されていた。戦前には天皇の死因について虚像が罷り通り、実像は権力により隠蔽された」

と述べている。

明治天皇の祖父中山忠能は
「毒を献じた結果であり、陰計が企てられた」
と日記に記している。

また「旧皇族が語る天皇の日本史」の著者竹田恒泰氏は

「現代医学の知識を動員して考察すると、痘瘡は空気感染であるが、この時期に天皇の周辺で痘瘡感染者が居ないため、痘瘡自体が生物テロであった可能性が指摘される。また、感染症の常識からしていったん回復に向かったのに急変して死に至ることはありえない。さらに天皇の最期が急性砒素中毒症状と酷似することもあり、天皇が天然痘にかかったことに乗じて、二十四日の晩に誰かが砒素を盛った可能性がある。」

と述べている。

下手人最有力候補は勿論、極悪策士・岩倉具視である。

孝明天皇は、前年の岩倉具美の策謀によって倒幕派公家22人が押し掛け幕府批判を述べ、朝廷が大政を行うべしと訴えでた際には「徒党を組んで乱訴とは何事か!」と烈火の如く怒り、倒幕派公家22人に厳しい処断を下す決断力に溢れた一面があり、また攘夷強硬論者であった天皇ではあるが、中川宮に「深く時機を考えて見ると、慶喜や容保らの奏上するように、まだ武備が充実していないのに開戦するのは時機尚早である」と言い、冷静に状況を分析する栄邁な方であられた。

何より内外の時局を深く憂い、塗炭の苦しみに喘ぐ万民を自らの子とし、その苦しみを救いたいと、将軍家茂に賜った御宸翰でその叡慮を述べられているように慈愛に満ちた天皇であらせられた。

孝明天皇は決して脇役などではない。

陰謀渦巻く朝廷にあって孤軍奮闘し、自ら「国民の盾」となって我が国最大の危機を救おうとした英雄である。

後年、明治新政府の御用学者や小説家等が孝明天皇を

「時局を考えられない、ただの外人嫌いの頑固者」

と無能扱いのレッテルを貼っているが笑死千万の大嘘である。

黒船来航以来一貫して佐幕攘夷を掲げていた孝明天皇は、倒幕派公家やそれと結託した過激テロ組織らの最大の障害となっていた。

孝明天皇が生きてる限り倒幕は有り得なかった。

そこで私利私欲の塊、岩倉具視の毒牙にかかり亡きものとされてしまったのであろう。

幕府の大黒柱である将軍と、その守護者である天皇の余りにも早すぎる死。

ここに来て幕府は突然、求心力に不安を生じさせてしまう。

将軍には、これまで家茂を補佐して来た一橋慶喜がつき、孝明天皇の後継者は明治天皇となる。

しかし当時、明治天皇はまだ15歳。優しく柔和で、政治や武芸にも興味の薄い方であった。

一方、最後の将軍慶喜は後に家康公再来と云われ、短い間ではあったが獅子奮迅の働きをすることになる。

問題は、海外の手先となって倒幕を企てる勢力が一気に膨らんだという事実である。

しかも、一旦遠ざけていた倒幕派公家たちも、これに再び結びつき、倒幕工作に暗躍している。


◎大政奉還(公儀体制)

そして倒幕派がいよいよ決起しようとした時、最後の将軍慶喜は先手を打った。

将軍慶喜による大政奉還と公議体制樹立の奏上である。

大政奉還の上奏文に

「従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必ずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候」

とあるとおり慶喜は、政権を朝廷に返したのちは、

「広く天下の公議を尽くし」て、天皇の御英断を仰ぎ、諸侯と同心一体となって協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の誠意である、と、公議体制による国家運営を奏上しているのである。

大政奉還と公議体制樹立は、幕末の我が国が採るべき道として最高の政治判断であった。

なぜならそれは、幕府の政権を朝廷に返し、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うことであるから、倒幕派は名目を失い、戦乱を避けて平和裏に新しい政治体制に移行できるからである。

この場合の上下両議会とは、当時の概ねの議論では、上院が諸侯を議員とするもの、下院が藩士の中から有能な人物を議員とするものであり、一般庶民まで下院に登用すべきとする議論もあった。

新体制に参加することを余儀なくされれば、海外勢力を牽制しつつ、その中で薩長の不満に対して何らかの対策を講じることも出来る。

そして大政奉還は実行され公家、長州、薩摩ら、倒幕勢力はクーデターの名目を失い、初代将軍家康以来政権を担い、統一国家「日本」の礎を築いた幕府は終焉を迎え「公儀政府」となった。

ここまでのスローガン

公儀政府= 尊皇+攘夷の為開国
天皇= 公儀+攘夷

新長州= 倒幕+開国
新薩摩= 倒幕+開国
 公家= 倒幕

しかし、新長州、新薩摩、過激公家のテログループは表向きのスローガンとして「尊皇攘夷」を掲げ、情報工作した。

○1868年 倒幕の密勅
      王政復古の大号令

倒幕の動きは、これまでのテロ活動とは打って変わり変わり、大規模な反乱計画となっていた。

最後の将軍慶喜が「大政奉還」をしたその頃、朝廷から薩長に「倒幕の密勅」が下った。

これは岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らの姦計で、前大納言・中山忠能、前大納言・正親町三条実愛、権中納言・中御門経之らに出させたものであった。

この「密勅」は、幼帝のまったく関知しないところで作成された即ち「公文書偽造の偽勅」である。

慶応3年12月9日、岩倉具視や大久保利通らは武力クーデター計画を進め、佐幕派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王らを排除し、御所を包囲制圧し明治天皇の掌握した。

この時岩倉具視の主導のもとに発令されたのが「王政復古の大号令」である。

これは「王政復古」と言いながら天皇には実権を渡さず、摂政・関白などの伝統的な上級公家を排除し、天皇親政の名の下、岩倉具視一派や薩長のテロリストらが主導する新政府樹立宣言であった。

そして小御所会議にて徳川家廃却の為「辞官納地」を決定。

その頃最後の将軍慶喜は近代化された旧幕府陸軍五千余人、会津藩兵二千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて一万余人の大軍を率いて二条城にいたが、薩・長・芸の藩兵が続々と入京し京都は一触即発に状態となった。

将軍慶喜は偶発戦争を回避するため大阪へ拠点を移し、江戸へ旧幕府陸海軍の精鋭部隊の来援を命じ軍事的優位を確立する。

のみならず小御所会議での決定に反撃に出る為、外交面でも手を打った。

英・仏・米・蘭・独・伊の六ヶ国の行使を引見し正論で小御所会議の決定を非難し、徳川政権の正統性を諸外国に認めさせ、逆に岩倉具視や大久保利通らを追い詰める。

国際社会から認められた政権が正統政権である。

こうして将軍慶喜は政治的挽回を果たし、巻き返しに成功した。

しかし・・・

ここで岩倉具視のクーデターを鎮圧することが出来れば、歴史はまだ修正出来たのであろう。

○同年、鳥羽伏見の戦い

将軍慶喜の大政奉還によって武力倒幕の名目を失った西郷隆盛は開戦の切っ掛けを作る為、江戸で薩摩のテロリストたちに無差別テロを繰り返させ、幕府を挑発し続けた。

ここへ来て今まで海外勢力が迫る中、同じ日本人同士が血を流す愚を避けようと隠忍自重し、我慢に我慢を重ねた将軍慶喜も幕府も遂に堪忍袋の緒が切れた。

幕府は江戸薩摩藩邸へ総攻撃、焼き討ちにする。

そして将軍慶喜は明治天皇を奪回する為に京へ軍を進め、そこで戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽伏見の戦い」が発生する。

滝川具挙率いる幕府軍、「討薩表」を朝廷へ奉上の為鳥羽伏見街道を進発。

薩摩軍に行く手を阻まれ、押し問答の末戦闘開始。

会津藩兵大活躍するも形勢不利の為、滝川隊退却。

これに対して幕府軍は近代化された幕府陸軍を投入。砲兵隊からの支援砲撃を受けた幕府精鋭部隊、善戦し敵中深く突入。

幕府軍有利であったが、この時、

テロリスト側薩長陣営に「錦の御旗」が翻った。

戦況は逆転し幕府軍総崩れ。

敗退・・・。

なぜ幕府軍は、一万五千対五千、三倍近くの兵力を持ちながらこの戦いに敗れてしまったのか。

本来、正規軍によるテロリスト討伐戦だった。

武器の差が、三倍の兵力差を凌いだのであろうか。

いや、その原因はテロリストたちが掲げた天皇の「錦の御旗」である。

つまりクーデターによって無理矢理身柄を拘束されていた明治天皇が、今度はテロリストたちを正規軍だと認め、正規軍であるはずの幕府軍を賊軍とみなしたということである。

「明治維新」は、ここに完了した。。。

将軍慶喜は徹底抗戦派らの意見を抑え、上野の寛永寺に入って謹慎恭順に踏み切った。

こうして政権はテロリスト側に移った。

抗戦派が主張するように幕府が総力を挙げて戦えば絶対に負けなかったろう。

そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても壊滅的被害が出たであろう。

それが将軍慶喜は良く分かっていた。

この時点でのスローガン

明治新政府= 開国(殖民支配受容)

◎維新後

新政府軍、国民の不満を抑えるため赤報隊に「新政府は年貢半減」と呼ばわせる。

その後、豪商らからの苦情に慌てた明治新政府は赤報隊を解散、幹部を処刑し公約はなかったことにした。

これは現政権民主党が「政権交代」「国民の生活が第一」をスローガンに、出来もしないマニフェストを掲げ国民の支持を得たのと同じである。

そして江戸市中砲撃をやめる代わりに江戸城を開城させ、史料捏造を開始する。

この政権交代以後、国際金融資本の傀儡政府である明治新政府は、政府とは別個の軍事組織である総督府を勅命で組織し、官軍を名乗り戊辰戦争と云う目を覆いたくなるような「侵略戦争」を開始、江戸を攻め、会津を攻め、東北、函館へと蹂躙し、略奪暴行虐殺を続け、植民地とする。

この総督府には、軍令、軍政に関する一切の権限、並びに民政一般にわたる広範囲な裁量権まで与えられた。

この軍事組織である総督府は、後の植民地経営にも応用され、台湾総督府、朝鮮総督府として受け継がれる。

 政府ではなく総督府が戊辰戦争を取り仕切った理由は、政府内部には慶喜に味方する意見や東征反対論があったため、政府自体が戦争指導を行うと、反対派らの意見によって戦争遂行が妨げられるから別立ての組織を整えたのである。

後の大日本帝国憲法は、この軍・政分離の仕組みを明文化したものであった。

即ち軍隊を統帥・編成し、宣戦布告や和平を結ぶ権限を天皇が独占して、議会は、予算面における関与だけで軍部をコントロールする道が閉ざされてしまったのである。

実際には軍事を支配する者たちが、天皇の御名を利用して、議会からの干渉を排除し、自分たちの軍事行動の自由を確保するために定めたものであった。

昭和に入って政治問題化した統帥権独立の議論は、帝国憲法の軍・政分離とシビリアンコントロール排除の規定に起因するものであったが、これらは、根源的には、戊辰戦争時の総督府に由来するものである。

即ち明治新政府の成立過程で既に内在化されていたものなのである。

既に幕府が消滅し「攘夷か開国か、尊皇か佐幕か」の争点に決着がついている以上、明治新政府が東北諸藩を攻める理由は、今や全く無い。

にもかかわらず恭順を申し出る東北諸藩を呵責無きまでに攻撃した。

死んだ者の埋葬を許さず、埋葬した者を罰し、降伏したものを虐殺し、そこかしこで女達を「分捕り」として強姦しまくり、少年達の首を刎ね、その生首を肴に酒盛り・・・。

東北諸藩は搾取と隷属の対象とされ、明治新政府の方針は「搾れるだけ搾れ!」であった。

戦国時代さながらである。

これが近代化を目指す者たちのやることであろうか。

戊辰戦争は、公議輿論に基づく公議体制樹立を阻み、我が国の良き伝統である祭祀王としての天皇のあり方を崩し、天皇の御名を利用して薩長のテロリストとその後継者である藩閥・閨閥・財閥出身の政治家が長く政治を支配するシステムを確立し、国民に対する政治責任を忌避し、我が国の近代型立憲主義の運動を歪め、その発展を遅らせた。

「四民平等」をスローガンに掲げたのにも関わらず、現実には華族・士族・平民と新たな階級をつくり、華族を特権階級化して権勢を振るった。

◎誇り

維新に於ける僅かな誇りとすべきは、旧幕府側が公議政体論を掲げ、新政府内の倒幕派に非を唱え、まさに血の贖いによって「五箇条の御誓文の発布」を政府から引き出したこと。

そして戊辰戦争では短期間で崩壊したとはいえ、会津と奥羽越列藩同盟が郷土防衛のために一致協力して公議体制を樹立し、近代型議会主義のさきがけとなったこと。

新政府の悪辣非道なやり方に異議を唱え、尽忠報国を貫き、老若男女一丸となって薩長土の侵略軍に対して最後まで奮戦した会津藩や、忠義のため、誠のために五稜郭で最後まで戦い抜いた方々によって武士道の誉れを後世に輝かせたことである。

◎保守主義

黒船来航から遡ること64年前、フランスでは「自由・平等・友愛」をスローガンに革命が起きた。

穏やかなスローガンとは裏腹に略奪暴行虐殺の嵐で、ギロチンによる恐怖政治の幕開けとなるものであった。

このフランス革命における革新思想に対してイギリスでは保守主義の父、エドマンド・バークが『フランス革命についての省察』を公表し、保守主義を大成した。

『フランス革命についての省察』に於けるバークのフランス革命に対しての批判はそのまま明治維新にも当てはまる。

何故なら明治新政府が行ったことは、フランス革命後の恐怖政治と非常に酷似しているからである。

つまり「維新」とは今さら言うまでもないが極左テロリストによって政権転覆させられた「革命」のことなのである。

「文明開化」や「脱亜入欧」などのスローガンのもとにあれほど多くの欧米の哲学者・思想家の著書を翻訳刊行し流布せしめたにもかかわらず、英米の保守主義のみはほとんど排除された。

明治憲法の運用なども、上からの改革を推進するためドイツ法を範にされることになり、その後東大法学部はドイツ憲法学を中心として英国憲法学を排除した。

そのためコークやウィリアム・ブラックストンとともにバークなどの保守思想は東大のカリキュラムから排除され、ドイツ観念論やマルクス主義がもてはやされた。

これなどはバークなどの保守主義が出回ると革命政権である明治新政府はあらゆる意味で不都合が生ずるからである。

このことは昭和に入っても同じで、日本の知識層と軍部中枢が社会主義一辺倒となり、全体主義(社会主義、共産主義)と対極にある保守主義は、これまた時代に反逆する思想でしかなかった。

また戦後になってもこの傾向は変わらず、ことにマルクス主義に汚染された学界は英米系保守主義の研究を意識して積極的に排斥し、「検閲」と「弾圧」が陰湿に実行された。

我が国に左翼が多いのはこれが原因である。


◎伝統文化の破壊

新政府は思想統制と自らの権威付けの為に「神道国教化政策」を実施、神仏分離令や神社統合令などの大悪法を発令し、それに伴う廃仏毀釈によって神仏を無理矢理分けられ、我が国の心の拠り所を破壊されまくった。

明治新政府の権力を笠にきた神主どもや役人どもによる寺院破壊や仏像破壊等で多くの国宝が失われた。

そして皇室からは古代からの神道に拠るものや仏教、陰陽五行に拠るものなど、即ち神仏習合思想に拠るものを全部撤廃してしまった。

現代の日本人が精神を病みやすいという原点はこの我が国が誇るべき神仏習合思想などの心の拠り所を奪われたからに他ならない。


◎我が国の保守主義とは?

一般に、明治維新によって「日本は世界に雄飛した」、と賛美する人々もいるが、それは明治以降の政府がそのように史実を捻じ曲げたものを、そのまま素直に信じているに過ぎない。

明治新政府が樹立後に始めた数々の悪行は、知れば知るほど恐ろしいものである。

現在から見て幕末の正義と悪が混然としてしまっているのは、当時のテロリストたちが情報の乏しい中にそれぞれ好き勝手な喧伝をし、実態を伴わないスローガンで人々の思想を捻じ曲げようとしたことに第一の原因がある。

それは恰も「尊皇攘夷!尊皇攘夷!」と叫んで、幕府が天皇と敵対し、開国して外人を引き入れようとしていると、その当時の人たちに思わせ、実は自分達が天皇と敵対し開国しようとしてたようなものである。

それともう一つは、「勝てば官軍」の明治新政府が自分たちの悪行を覆い隠し、正道をすりかえる為に、事実の端々を塗り替えた事にもある。

このように欺瞞に満ち、捏造した歴史を押し付け、国体を大いに歪め、天皇を操り人形にし、数々の公約に違反し、偽勅を連発し、自国民を虐殺し、弾圧政治を行った英国の傀儡・明治新政府を賛美するのが真の保守であろうか。

長らく続いた戦乱の病を癒し、太平の世を拓き、庶民文化を花開かせ、同じ日本人同士が争う愚を何としても阻止し、近代化への布石をすべて打って西欧列強から我が国を守ろうとした幕府こそが真の保守であったのではなかろうか。

つまり当時佐幕こそ真の保守主義であったのだ。

しかし、その幕府も今はもう無い。

であれば、その幕府が目指そうとし、「維新」がなかったら歩んでいたはずの「もう一つの日本」を模索し、独立国家「日本」であった頃の江戸文化を現代に適合させた「新江戸体制」を構築していこうとすることが、現代の真の保守主義ではなかろうか。

◎これからの戦い

以上見てきたように明治からの日本は日本では無い。

英国の策略に負けて植民地となったのである。

歴史は繰り返す。

現在の我が国が明治へ回帰したら、また戦争を引き起こし、そして負けるであろう。

大東亜戦争に於いて我が国は欧米列強に「大独立戦争」を挑み、そして負けた。

英国の植民地から米国の植民地に変わった。負けたから・・・。

今度は支那か露西亜か・・・。

日本が日清戦争の勝利に酔い痴れていたその頃、米国では対日戦争計画が立てられていた。つまり第二次世界大戦より五十年近く前から対日長期戦略が策定されていたのである。

それが「オレンジ計画」である。

そしてその計画通り戦争は進み、計画通り勝利した。

計画誤差は殆ど無い。

つまり米国の勝利は戦争前から確定していたのだ。

戦争に於いて「やってみなければ分からない!」などと言ってるのは愚か者である。

戦国時代の諸武将たちが学んだ兵法書「孫子」には以下のように書かれている。

『昔えの善く戦う者は、先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ』

古代の巧みに戦う者は、まず敵軍が自軍を攻撃しても勝つことの出来ない態勢を作り、敵軍が態勢を崩して、自軍が攻撃すれば勝てる態勢になるのを待ち受けた、と云う意味である。

さらに

『善く戦う者は、不敗の地に立ちて、敵の敗を失わざるなり。是の故に勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦い、敗兵は先ず戦いてしかる後に勝を求む』

巧みに戦う者は、決して敗れる恐れの無い態勢に身を置き、敵が敗れさる機会を逸しない。だから勝利する軍は、まず勝利を確定しておいてから、その勝利を予定通り実現しようと戦闘するが、敗北する軍は、先ず戦闘を開始してから、その後で勝利を追い求める、と云う意味である。

このように戦争とは先ず勝たなければならない。実際の戦闘はその勝利の確認作業なのである。

最近やたらと、「隷米体制を脱却せよ!」或いは「中国と一戦交えてやれ!」と威勢良く云っている方を見かけるが、果して我が国の軍事力と我が国を取り巻く軍事情勢を理解してるのであろうか。

属国支配から脱するにしても、一戦交えるにしても、何十年何百年と云う視野で見なければならないのである。

そして戦いに於いて「勝つ」ことより最も大切なことは「負けない」と云うこと。

これからの戦いは「物資の量」でも「核」でも「経済」でもない。

我が国独自の伝統文化に基く「価値観」である。

そう、明治以前の「循環と調和」を尊ぶ、即ち「和を以って尊しと為す価値観」である。

これこそが我が国最大最高の武器である。

その為に早く「維新」と云う幻想から覚めなければならない。

今度こそ「負けない戦い」を始めよう。

◎おわりに

真の黒幕とは一体誰であったのだろうか。

国際金融資本ジャーディン・マセソン?、英国首相パーマストン?、英国公使パークス?、通訳官アーネスト・サトウ?、仏国公使ロッシュ?・・・

勿論、グラバーだの坂本龍馬だの岩崎弥太郎だのはジャーディン・マセソンの手駒の一つに過ぎない。

そして、そのジャーディン・マセソンも・・・。

それとも「明治維新」とは薩長を支援した英国と幕府を支援した仏国の代理戦争だったのか・・・

それとも英仏の日本植民地化共同作戦だったのか・・・

何れにしろその当時の世界情勢からこの「明治維新」を読み解かなければ、その本当の姿は見えて来ないだろう。

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