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徽宗皇帝のブログ

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暴力論(3)
私は、書きながら考える人間なので、書いていない時には何も考えていないようなものだ。ほとんどの思考は「浮遊思考」であり、「断片的思考」であり、同じ事が断片的に頭の中をぐるぐる回っているだけだ。つまり、吉田兼好が言うように「思いは縁に触れて起こる」ものなのだから、何か文章を書いて、書いた部分から連想されることによって次の思索がつながっていくというのが「書きながら考える」ということであり、私はそれ以外にはまとまった思考はできないのである。
で、「暴力論」については、「暴力革命」を論じるために書き始めたのだから、革命と暴力についての一応のまとめはしておきたい。内容は書きながら考えていく。

実は、一昨日から深夜にネットテレビで「ドクトルジバゴ」を観ていたのだが、確かこれを見たのは高校生か浪人のころで、「えらく長いし、退屈な部分が多い映画だなあ」としか思わなかった。ロシア文学が好きで、この映画の原作はノーベル賞を取り、監督のデビッド・リーンは「アラビアのロレンス」などを撮った名監督らしいし、ラジオから流れる「ララのテーマ」はきれいだし、で、見る前の期待が大きすぎたからがっかりしたのだろう。それに当時はロシア革命などにまったく興味も無く、映画は娯楽としてしか見なかったのである。まあ、今でも基本的には同じ姿勢だが、若いころとは違って、子供向けの部分だけでなく、子供の気づかない部分にも面白さが見出だせるようにはなりつつある。昔見た時には、ヒロインのララ(ラーラ)が登場して間もなく悪党の中年男(ロッド・スタイガー)に強姦されたのにショックを受けたが、今見ると、ラーラは婚約者のいる身でありながら、その中年男に性的魅力を感じているのがその表情から分かり、実は強姦ではなく、和姦に近いものだったことも分かって面白い。若いころには普通の男はそういう女性心理など分からないし、分かりたくもないものだ。
まあ、何のためにこんな映画の話をしたかと言うと、もちろんこれが「ロシア革命」を背景にした物語だからで、これを見て私はロシア革命にかなりな嫌悪感を感じ、今に至るまでロシア革命には何の興味も持てなかったのである。ユダヤ資本のハリウッドが洗脳目的でこの映画を作ったとしたら、私に関しては大成功だったわけである。何しろ、革命前の庶民の窮乏状態のひどさや階級差別はほとんど描かれず、せいぜいがデモ隊への暴力が描かれるだけで、そのデモも「世間知らずの連中が抽象的な社会主義思想にかぶれて政府に反抗しているだけ」という印象なのである。その一方「革命の悲惨さと残酷さ」「革命下の窮乏生活と転落したブルジョア階級への民衆の憎しみ」は延々と描かれる。これでロシア革命には意義があったと思うのは無理だろう。
まあ、ロシア革命を否定的に描いていること以外は、「人間ドラマ」としてはなかなか面白いのだが、しかし、「死と貧困と憎悪」が話の大半である映画を娯楽として楽しめるのはかなりなサディストだけだろう。ただし、ロシアの風景のスケール感は素晴らしい。

3)革命と暴力

革命と暴力は車の両輪だ、と前に私は書いたが、その考えは変わってはいない。権力の座にいる階級が自らその権力を手放すはずはなく、その権力は法によって守られているのだから、暴力(不法な力の行使)以外には奪取できないのは理の当然である。ただし、私が「漸進的社会主義者」であることはだいぶ前に書いた通りで、その思想は変わってはいない。つまり、私は社会が(たとえば政治制度や行政組織の変革を通じて)漸進的に進歩していくことは望むが、革命という急激な変革は望まない、ということだ。と言うのは、暴力を肯定した形の変革は、それ自体「必要以上の残酷さ」を伴うからである。新たに権力を奪取した層は、その権力をふるう対象として、前の権力層とその追随者層(単なる役人やインテリ階級まで含む)に対して残酷な行動に出るのが、過去の革命の常であった。そして、革命による以上に人類を幸福にしてきたのが「福祉制度の発生と社会への浸透」だったのである。これは「漸進的社会主義の成果」だと私は思っている。
言うまでもないが、私は「革命の理念」はほとんどが正しいものだっただろう、と思っている。だが、実際の革命の姿は、恐ろしく残酷なものが大半だったのではないか。当然の話で、虐げられた階級は、それまでの復讐を上位階級に対して行うに決まっているからだ。人間性が天使のように善良ならば、そもそも革命などが起こるような事態にもなるはずもない。
そういう「人間性の底流にある悪」を思えば、暴力革命によって生じる悲劇がいかに理不尽なほど残酷なものかも容易に想像できるのである。
まあ、革命が起こる前に、福祉を重視した政策を採り、庶民生活を幸福にするような政治を行えばいいだけの話なのだが、「カネがすべて」という人間が社会の上位を占めると、いつ暴力革命が起こっても当然だ、という世の中になるのである。



以上で、「暴力論」は一応終わりとする。いずれ追記するかもしれないが、まあ、多分しないだろう。「日常の暴力と政治の暴力」の違いなどももう少し考察する気だったが、これは、「そのふたつはまったく別だが、実に混同されやすい」とだけ言っておく。もちろん、「暴力の実行よりも暴力を背景とした威嚇を有効に使う」という点は同じである。









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コメント

1. 無題

「暴力」という単語しか世の中にないので何処かしっくりしないお話になったりすることがあります。
「正力」という、「暴力」に対照する単語が世間で使われるようになれば、世の中も少し変わって来ると思います。

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