ビル・トッテンの「our world」から転載。現在は「賀茂川浩介のブログ」になっているようだ。(「賀茂川浩介」の漢字はうろ覚え)(訂正:「耕助」であった。)
日付に注意してもらいたいが、何と2010年の記述である。
これほど前から「ACTA」の危険性について警鐘が鳴らされていたのに、誰もその事を気にも留めなかったのだ。私がこれを読んだのも、今日、「マスコミに載らない海外記事」の関連記事として知ったからである。
そして、ヨーロッパではACTAのこの危険性が大衆にも知られ、大規模な反対運動が起こった結果、ACTA法案は廃棄になったのだが、日本ではそれが国会に提出されていることすら国民の知らない間に法案が国会を通過していたわけである。(私自身、あまり気にも留めていなかったし、報道もあまり見かけないので、完全に成立したのかどうかはよくわからない。)
ACTAという一法案よりも、この成立過程の方が大問題ではないだろうか。
いったい、国会とは何なのか。マスコミとは何なのか。
国会で通過する法案と国民の意思が、どうつながるのか。
国民は自分の意思で消費税増税を決めたのか。ACTA成立を決めたのか。原発再開を決めたのか。
それとも、国会議員として選ばれれば、それは「全権委任」で、何をどう決めても国会議員の勝手なのか。
こう考えると、やはり間接民主主義(議員代表制)による民主主義は空虚な概念でしかなく、仮面民主主義にしかなりえないかと思われる。
と言って、橋下などによる「独裁政治」はもっと嫌ではあるが。
プラトンの分類に倣えば、「独裁制」「民主制」のほかにはたしか「寡頭制」があって、時代は下るがローマ帝国初期(つまり、本当は「帝国」以前だが)の政治は貴族院による寡頭政治が行われて、なかなかうまくやっていたようだ。「賢人」を集めた「知的貴族院」でも作って、彼らに政治を任せるか? まあ、「原発委員会」や「経団連」化するのがオチだろう。
それとも、プラトンのお勧めの「哲人政治」しか無いか。
と言っても、それは実は独裁制なのだが、独裁をする人間の人格・品性によって、国が地獄にも天国にもなるということだ。それに、「我こそは哲人なり」という人間ほど信用できない人間もおるまい。
我々のやるべきことは、やはりこの欠陥だらけの民主主義を改善し、使用に耐えるものにしていく、ということなのだろう。だが、もはや遅きに失した感もある。
民主主義という、この第二次大戦後に「上から与えられた権利」に対して日本国民全員が無知で無関心であったがために、現在の日本のこの惨状がある。
丸山真男の有名な「であることとすること」という政治エッセイに引用された「権利の上に眠る者はやがてその権利を奪われる」という言葉が、まさに実現したのである。
(以下引用)
投稿日:2010年8月30日
今、インターネットに関連して私が気になっていることがある。「模倣品・海賊版拡散防止条約(Anti-Counterfeiting Trade Agreement:以下 ACTA)」をご存知だろうか。アメリカやEU、カナダ、オーストラリアそして日本などの先進国政府が2006年から作ろうとしている国際法である。
ACTAの危険性
アメリカの友人たちと、このACTAの潜在的な危険性について最近電子メールで意見交換を行っている。ACTAの名称からすると、あたかも中国などからの模倣品や海賊版を取り締まることが目的のような条約だが、その内容はインターネットを規制する方向にもっていこうという意図が含まれるからだ。
私の経営する会社は企業や行政機関などのにコンピュータ・ソフトウェア製品およびサービスを提供している会社である。コンピュータによって飛躍的に人間の処理能力は向上したが、ITにおける真の革命的な出来事はインターネットの普及であると私は思っている。なぜなら資金力のある組織が一方的に情報を流すことができるテレビと違い、資金がなくても、一個人でも、インターネットによって記事や映像を配信することが可能となり、また受け手側も自分のニーズにあったものを選択することができるようになったからだ。
各国の政府は、世界には多様性があることや、政府や大企業が知られたくないことを、多くの国民に効率よく知らせることができる仕組みであるインターネットをコントロールするために「知的財産権」という言葉を使い、国際的な規律を作ろうとしている。先進国政府は秘密裏にこの条約を成立させようとしているが、その内容がインターネットで少しずつもれている。だからこそ私たちが知ることになったのだが、そんなインターネットの取り締まりをしたいのは当然かもしれない。
日本国内の法律を見ると、今年5月、インターネットを政府の規制下に置く「放送法改正」が衆議院を通過した。これは、現在異なる法律で規制されている放送と通信を一元的に規制しようとするというものだが、これによってインターネット上で行われる個人の情報発信が政府の規制下に置かれることになる。放送法改正はACTAのための下準備といえるだろう。
ACTAについては非営利組織である電子フロンティア財団や他の監視団体などが、基本的人権や自由を侵害するとみて透明性を求める活動を行っている。民主的なプロセスによって条約が作られていないことは確かである。そしてACTAが批准されればプロバイダーにはWebサイトの監視が義務付けられ、その結果著作権違反という名の下に人気のあるYouTubeやFlickrのようなサイトでも閉鎖させることができるようになる。
究極は、現在そして未来の革新のために、情報やナレッジを人々が自由に共有すること、それ自体が禁じられるようになるだろう。規制緩和を叫ぶ政府が急に規制を強めたいと言い出したとき、その裏に誰がいるかといえば、今の体制における既得権益者しかない。そしてインターネットは、それくらい彼らにとって脅威だということだ。
日付に注意してもらいたいが、何と2010年の記述である。
これほど前から「ACTA」の危険性について警鐘が鳴らされていたのに、誰もその事を気にも留めなかったのだ。私がこれを読んだのも、今日、「マスコミに載らない海外記事」の関連記事として知ったからである。
そして、ヨーロッパではACTAのこの危険性が大衆にも知られ、大規模な反対運動が起こった結果、ACTA法案は廃棄になったのだが、日本ではそれが国会に提出されていることすら国民の知らない間に法案が国会を通過していたわけである。(私自身、あまり気にも留めていなかったし、報道もあまり見かけないので、完全に成立したのかどうかはよくわからない。)
ACTAという一法案よりも、この成立過程の方が大問題ではないだろうか。
いったい、国会とは何なのか。マスコミとは何なのか。
国会で通過する法案と国民の意思が、どうつながるのか。
国民は自分の意思で消費税増税を決めたのか。ACTA成立を決めたのか。原発再開を決めたのか。
それとも、国会議員として選ばれれば、それは「全権委任」で、何をどう決めても国会議員の勝手なのか。
こう考えると、やはり間接民主主義(議員代表制)による民主主義は空虚な概念でしかなく、仮面民主主義にしかなりえないかと思われる。
と言って、橋下などによる「独裁政治」はもっと嫌ではあるが。
プラトンの分類に倣えば、「独裁制」「民主制」のほかにはたしか「寡頭制」があって、時代は下るがローマ帝国初期(つまり、本当は「帝国」以前だが)の政治は貴族院による寡頭政治が行われて、なかなかうまくやっていたようだ。「賢人」を集めた「知的貴族院」でも作って、彼らに政治を任せるか? まあ、「原発委員会」や「経団連」化するのがオチだろう。
それとも、プラトンのお勧めの「哲人政治」しか無いか。
と言っても、それは実は独裁制なのだが、独裁をする人間の人格・品性によって、国が地獄にも天国にもなるということだ。それに、「我こそは哲人なり」という人間ほど信用できない人間もおるまい。
我々のやるべきことは、やはりこの欠陥だらけの民主主義を改善し、使用に耐えるものにしていく、ということなのだろう。だが、もはや遅きに失した感もある。
民主主義という、この第二次大戦後に「上から与えられた権利」に対して日本国民全員が無知で無関心であったがために、現在の日本のこの惨状がある。
丸山真男の有名な「であることとすること」という政治エッセイに引用された「権利の上に眠る者はやがてその権利を奪われる」という言葉が、まさに実現したのである。
(以下引用)
投稿日:2010年8月30日
今、インターネットに関連して私が気になっていることがある。「模倣品・海賊版拡散防止条約(Anti-Counterfeiting Trade Agreement:以下 ACTA)」をご存知だろうか。アメリカやEU、カナダ、オーストラリアそして日本などの先進国政府が2006年から作ろうとしている国際法である。
ACTAの危険性
アメリカの友人たちと、このACTAの潜在的な危険性について最近電子メールで意見交換を行っている。ACTAの名称からすると、あたかも中国などからの模倣品や海賊版を取り締まることが目的のような条約だが、その内容はインターネットを規制する方向にもっていこうという意図が含まれるからだ。
私の経営する会社は企業や行政機関などのにコンピュータ・ソフトウェア製品およびサービスを提供している会社である。コンピュータによって飛躍的に人間の処理能力は向上したが、ITにおける真の革命的な出来事はインターネットの普及であると私は思っている。なぜなら資金力のある組織が一方的に情報を流すことができるテレビと違い、資金がなくても、一個人でも、インターネットによって記事や映像を配信することが可能となり、また受け手側も自分のニーズにあったものを選択することができるようになったからだ。
各国の政府は、世界には多様性があることや、政府や大企業が知られたくないことを、多くの国民に効率よく知らせることができる仕組みであるインターネットをコントロールするために「知的財産権」という言葉を使い、国際的な規律を作ろうとしている。先進国政府は秘密裏にこの条約を成立させようとしているが、その内容がインターネットで少しずつもれている。だからこそ私たちが知ることになったのだが、そんなインターネットの取り締まりをしたいのは当然かもしれない。
日本国内の法律を見ると、今年5月、インターネットを政府の規制下に置く「放送法改正」が衆議院を通過した。これは、現在異なる法律で規制されている放送と通信を一元的に規制しようとするというものだが、これによってインターネット上で行われる個人の情報発信が政府の規制下に置かれることになる。放送法改正はACTAのための下準備といえるだろう。
ACTAについては非営利組織である電子フロンティア財団や他の監視団体などが、基本的人権や自由を侵害するとみて透明性を求める活動を行っている。民主的なプロセスによって条約が作られていないことは確かである。そしてACTAが批准されればプロバイダーにはWebサイトの監視が義務付けられ、その結果著作権違反という名の下に人気のあるYouTubeやFlickrのようなサイトでも閉鎖させることができるようになる。
究極は、現在そして未来の革新のために、情報やナレッジを人々が自由に共有すること、それ自体が禁じられるようになるだろう。規制緩和を叫ぶ政府が急に規制を強めたいと言い出したとき、その裏に誰がいるかといえば、今の体制における既得権益者しかない。そしてインターネットは、それくらい彼らにとって脅威だということだ。
PR
コメント