自己引用した記事は、多くの近代国家では上級国民以外はすべて奴隷的存在になる、というメカニズムの考察であるが、メカニズムと言っても改変可能な、国家制度や社会システムの問題だ。つまり、「権力移譲をしながらも、国民は奴隷にならない」国家や政体を作るのは可能だと私は考えている。それに、形だけとはいえ、「民主主義」を標榜する以上は、国家の主権は国民にあるはずなのである。
企業のボスでも、反抗する社員を死刑にはできない。上の人間への反抗は、たかがクビになるだけだ。しかし、カネのない人はその程度でも死ぬほど怖がるのである。つまり、ある程度の資産が、人が自由であるための大前提となるのである。そういう意味では、私の嫌いなサイバラリエコの「カネの無いのは首の無いのと同じ」は至言である。だが、そこにこそ、ここで論じた問題の解決策があるのではないか。
(以下自己引用)一文だけ元記事に注記として言葉を足している。
(以下引用)
この本の前半では、人間が進化の過程でみずから起こしてきた自己家畜化という(生物学的な)変化・進化について解説しますし、それこそが人間を地球の覇者たらしめた生物学的な鍵ではあるでしょう。とはいえ、自己家畜化を遂げた人間といえども、誰もが・どんな文化や環境にも適応できるわけではありません。文化や環境の変化がもっともっと加速していくとしたら、より多くの・より新しい不適応が私たちを待ち受け、将来の私たちを疎外するのではないでしょうか。
(以上引用)
で、私がこの「自己家畜化」という言葉を聞いて即座に連想したのがエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉と著作だが、20代のころに読みかけてすぐに放棄したので内容が分からない。おそらく、ドイツ国民がなぜナチスとヒトラーを受け入れた、あるいは国民自ら国家統率の中心として彼らを選んだのか、ということを精神分析的に解明しようとしたものだろうと想像している。
まず、ウィキペディアで調べてみる。と思ったが、下のサイトのほうが分かりやすいようだ。
(「哲学ちゃん」というサイトから転載)
自由からの逃走
フロムは著書『自由からの逃走』の中で、人間が自ら自由を放棄してしまう心理的メカニズムを明らかにしました。
フロムによれば、人間はもともと自己決定の自由(=自身の運命を自分で決める能力)を持っています。
しかし一方で、人間は自由になることで孤独感や無力感を抱えてしまい、結果として逆に自由から逃避してしまう傾向も持っています。
自由からの逃避は「権威主義への逃避」「破壊主義への逃避」「機械的画一性への逃避」という3つの形となって表れます。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
権威主義への逃避(依存)
「権威主義への逃避」とは、他人を自分の権威の支配下に置いたり、他人の権威に自分の自由を託すことによって、身の安全を求める心理です。前者はサディズム、後者はマゾヒズムの心理につながります。
例えば、自分でビジネスを起こした方が自由になれるにも関わらず、事業の失敗を恐れるあまり、敢えて会社に支配されるサラリーマンとして働いてしまうことが挙げられます。
破壊主義への逃避(破壊)
「破壊主義への逃避」とは、他者や自分自身を攻撃することによって不安から逃れようとする心理です。
例えば、恋人の心が自分から離れることを恐れるあまり、恋人の浮気を疑ってしまったり(他者への攻撃)、フラれたショックをごまかすために暴飲暴食をしてしまったり(自分への攻撃)することが挙げられます。
機械的画一性への逃避(同調)
「機械的画一性への逃避」とは、周囲の人と合わせることによって、自分が自由に発想することを放棄してしまう心理です。
例えば、「ダサい」と思われることを恐れるあまり、無難な服装や髪型を選んでしまうことが挙げられます。
(以上引用)下の私の記事の文末は舌足らずで「暴君の起源」のことである。
フロムの3つの分類は、まあ、ほとんど無用の分類で、政治的には「権威主義への逃避」がほとんどだろう。しかもそれは日常生活の「組織」においても同じである。組織内の権力者への反抗は困難であり服従は容易だ。一番の要点は、「自由は面倒くさいし、責任を追及されるし、下手をしたら権力者に処罰される」ということではないか。そこで近代社会では人は自由から逃走し、自分の「決定権」を権力に委譲する。要するに、「権威主義への逃避」ではなく、「権力への恐怖」がその正体だろう。つまり、自ら権力を持つ者はけっして自由から逃走などしない。これは、最近問題化したジャニーズ事務所問題や松本人志問題の起源的原理だ。
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