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徽宗皇帝のブログ

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民主主義は終わった?
私自身は、民主主義に勝る政治形態は無い、と考えているが、それは国民の精神的次元上昇があっての話である。国民の8割くらいがB層である国では民主主義は衆愚政治になるしかないだろう。なお、前々から言うようにB層であるかどうかは学歴や年齢や身分職業とはまったく関係がない。いい年をした大学教授などが立派なB層であることなど珍しくもないだろう。(まったく、電通は、この「B層」という言葉を作ったという点では、いい仕事をしたもんだw。これで政治的な議論が実にはかどるようになった。)
さて、民主主義を評価する点では人後に落ちないと自負している私だが、民主主義はもはや終わった思想だ、という考えもある。私がしばしば引用する増田俊男もその一人だ。念のために言うが、私が彼を引用するのは、彼には時々秀抜な視点が見られるからである。彼の人間性や根本思想はまったく買っていない。しかし、民主主義は終わったという彼の意見は、考察する値打ちはあるから、まずはその意見を拝聴しておこう。
はたして、1%のエリートは99%の非エリートと同じ1票であってはいけないのかどうか。その「エリート」たちが、この日本を現在のように破滅寸前にまで追い込んだのではなかったか。そして、その「エリート」たちは、はたして本当に政治経済的思想や判断力の面でも優れているのか。学校秀才がはたして政治経済の舵取りをするのにもっとも向いているのか。そうした部分についても彼の考えを聞いてみたいものである。
人間の労働はロボットで代用される、というのは大筋としては正しいとしても、ロボットでは代用できない労働もたくさんある。また、代用されるのは肉体労働よりもむしろ頭脳労働であり、増田氏の言うエリートの代表であるような医者や裁判官の仕事などこそがパソコンで代用されているのが現状だ。働く者が働かない者を養っている、という意見についても、では金を右から左に動かすだけの金融業や株屋の仕事が何かを生みだしているか、と言いたい。つまり、増田氏に代表されるような投資業など、他人の仕事に乗っかってうわまえをはねるだけの、まさしく無用の存在ではないか。
ということだ。
まあ、民主主義は終わったのではなく、まだ始まってもいない、というのが私の意見である。



(以下引用)



不朽のはずの民主主義の終焉



10月1日(新年度)からの暫定予算に共和党が制する下院がオバマ・ケア(オバマ大統領の看板政策:医療制度改革)の1年延期条件を付けたため民主党が過半数を占める上院が暫定予算案に反対、アメリカでは新年度からの予算無しで政府の一部機能不能に陥った。私は本誌で「金(予算)の切れ目が縁(国民との絆)の切れ目のアメリカは「品格の無い国」と揶揄したが本当に「金の切れ目が国民との縁の切れ目」になってきた。アメリカの国民が選んだ国会議員の議会で「多数決の原則」が故に予算は決まらず国債はデフォルト(不渡り)の危機。国民本位の放漫財政、返済の見込み無き借金総額増大化の連鎖でアメリカも南欧諸国同様の財政危機に陥っている。先進国の返済不能累積赤字の唯一の原因は止まること無き福祉予算増大化。「当選しなければただの人」だから政治家は当選するために「財源なき福祉予算」を国民に約束し続ける。日本も気が付いてみたら国の借金がGDP(国内総生産)比200%になっていた。アメリカの成人46%は税金を払わず何らかの形で福祉や失業保険の受益者、しかも年々その数が増加している。このことはいかに国民が権利だけを主張し義務を果たさないかを物語っている。日本でも福祉支給日はパチンコ屋さんが大繁盛するようにアメリカ化が進んでいる。「働かざる者食うべからず」(マルクス)は自由主義国家でも共産主義国家でも1970年代の高度成長期までは通用したが、今は「働かない者を食わすべし」に変わった。丁度日本が貿易黒字国から赤字国に変わり、恒常的海外所得収支黒字国になったのに「円安は日本経済にプラス」などと誤解しているように、民主主義哲学(考え方)も体質が変わった現在社会に不向きになっているばかりか政治と経済を崩壊に導きつつある。
何故民主主義なのか
いかなる哲学もそうであるように「民主主義は不朽ではない」。かつての「小冊子」で述べたが、17世紀の産業革命以来、従来の封建的地域に縛られていた個人が産業革命による経済の成長と拡大に伴って「労働と時間」として産業の重要な構成要素として開放された。さらに産業が競争力を持つためにはチャップリンのモダンタイムズのような歯車としての労働者ではなく労働者を個人として尊重し労働条件や労働環境を改善すれば労働者の労働力が「活性化」することが発見された。産業の必要性によって生まれたのが民主主義の思想である。
モダンタイムズは世界も日本も1974年に終焉した。小売店の会計に列をなす顧客をいかに早く回転させるかが求められた時代から、真心とサービス精神がスーパーに求められる時代になった。「量から質の時代」とも言える。単純な仕事はロボットが行う時代に産業が求めるのは1%のエリートである。エリートと、働けるのに働かないニートが同じ発言力(一票)では産業も国家も持たない!
20世紀の価値観を180度変える「増田俊男の下山の哲学」の時代が迫っている。



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