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徽宗皇帝のブログ

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永遠にゼロ
「晴耕雨読」から転載。

(特攻命令関係者は)「生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。」

とあるが、この人はまた「慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。」と言う。ならば、かなりの有名人であり、警察や地方自治体、あるいは政府関係者とも親しい間柄だったと推定できる。そういう人物が「実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた」ことは警察には筒抜けだったはずだ、と私は思う。もしそうならば、警察は拳銃や軍刀の不法所持を黙認していたことになる。つまり、警察は右翼的な人物の不法行為は黙認する、という、我々がよく知っている事実に、ここでも行き当たるのである。これは些細なことではなく、この国の根本的体質に関わる問題だ。安倍総理やそのお仲間、大新聞やNHKの委員に至るまで、この国の動脈は「戦争を命じる者たち」の汚らしい血で汚染されているのである。
私は「永遠のゼロ」という特攻隊賛美の本がベストセラーになったとかいうのは(たぶん電通と取次店の共謀による情報操作であり)あまり信じてはいないが、その映画は確かにヒットしたのだろう。とすれば、現代の若者の大半は、特攻隊のこうした汚らしい事実をまったく知らないのではないだろうか。知っていれば、そうした映画など最初から見る気も起こらないだろう。特攻隊員の若者たちの生命は命令者たちからゼロ扱いされたわけだが、この国では若者の頭も永遠にゼロなのかもしれない。

まもなく69回目の終戦記念日(あるいは「敗戦記念日」)が巡ってくる。この機会に、「火垂るの墓」でも見て、戦争というものが庶民にとってどのようなものか、噛み締めるのもいい。いや、それ以前に、今、中東やウクライナで起こっている惨劇を表マスコミが正直に報道すれば、若者たちも戦争というものの真の姿を知ることができるだろう。それはアニメやマンガとは違って、(あるいは「三国志」的な読み物とは違って)英雄たちが活躍するドラマではなく、ただの殺戮と暴虐、恐怖と憎悪、虚偽と汚辱と不条理の地獄である。そして、その背後には、そうした殺し合いをニヤニヤと見物している「戦争を命じながら自らは戦場に出ない者」たちの太った醜い姿がある。


(以下引用)



「特攻に送り出した側の本音が残っていた。すさまじくエグい。:松浦晋也氏」  天皇と近代日本
https://twitter.com/ShinyaMatsuura

特攻に送り出した側の本音が残っていた。

すさまじくエグい。

戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者 - 毎日新聞 http://t.co/S4I74esXVr

全員がこうとは思わないが、それでも送り出す側に、こういう人がいたこと、自分は文字通り人生を全うしたことは記憶しておいていいだろう。

人間、長生きせなあかん。




> 渡辺洋二氏の著作を読むと特攻命令者の大半は年金もらって生涯を全うした物ばかりだとありましたから、一部どころの騒ぎではないと思います…。

> 言葉が悪すぎるが「死人に口なし」を思い出した。アフリカやアジアの少年兵と同じ構図が見える「子供をだますのはたやすい」とか、こうしたワルのオヤジは反省なぞしない。

91歳が覚悟を決めて語ったのなら、事実であろうな。




 (中略)



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http://t.co/S4I74esXVr

戦後70年に向けて:いま靖国から/40 生き永らえた命令者

毎日新聞 2014年07月26日 東京朝刊

 「父も自決すべきであった」

 陸軍特攻を総指揮した第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将は戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうした。次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、それから18年、父の人生を考え詰め、自分も75歳の老年に達した2001年に本を書き、あえてこのような見解を世に表した。

 父の生前は問題を避けていたが、没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」とののしられ、真剣に向き合うようになった。

 深堀氏の妻は「夫は義父を心から敬愛していました」と語る。遺族の怒りは無理もないが、戦後56年たっても尊父の戦争責任を総括しなければならないと決意した司令官の息子の苦渋もまた、いかばかりであっただろう。

 第6航空軍は特攻生還者を福岡市の振武(しんぶ)寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てた。公刊戦史にも出ていない施設だが、戦後58年過ぎて記録作家、林えいだい氏(80)の執念の取材により、実態が明るみに出た。

 寮の管理者は、菅原中将の部下である倉沢清忠少佐。戦後は一橋大を卒業し、勤めた会社の社長に栄達して03年病没した。享年86。

 生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。それでも「特攻は志願だった」と言い張り、慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。

 林氏は東京都内の倉沢氏宅を初めは半ば強引に、半年余りで都合4回訪ね、のべ20時間以上のインタビューを敢行した。福岡県・筑豊地方の林氏宅に残る録音テープには、今日流行する特攻賛美のきれい事とは裏腹な、送り出した側の本音があけすけに語られている。

 例えば、学徒動員の特別操縦見習士官に比べ少年飛行兵は「12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」などと証言している。そんな暴言・放談がたくさん残る。

 当初取材を拒んだ倉沢氏は、4度目には自分から林氏を招いて大いに語り、直後に倒れて世を去った。初めて重い荷を下ろしたのか。

 誠の哀悼から死者を思い、魂を問い、霊性を聞くのなら、命じた者たちの応答は欠かせまい。今の靖国に、祭られた死者たちと生き残った者たちの対話はあるか。=次回は29日掲載<文・伊藤智永/写真・荒木俊雄>

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