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徽宗皇帝のブログ

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無骨な男、優しい女
「谷間の百合」さんのブログから一部引用。
ここに書かれたコミュニケーションの在り方は、まさに「日本的コミュニケーション」であり、言葉が論理ではなく感情を伝えるという「日本的言語使用法」だろう。私自身は根が理屈っぽいからこうした言葉の使用法が苦手であり、従って社会での日常会話や、特に女性との会話が実に苦手である。電話など、用件を伝えれば終わり、だから、女性が友人と電話で一晩中おしゃべりした、などという話を聞くと、他人事ながらその電話代を計算して心の中で文句を言ったりする。(笑)
さて、「言葉は論理ではなく感情を伝達するものだ」という指摘は非常に重要な指摘であり、社会の摩擦の多く、特に男女間のすれ違いは、この事実に対する男の側の無知から生まれている。言葉は(その裏側で)感情を伝えるものだ、というのは女性にとっては自明のことであるが、男性の多くはそこまで精神年齢が高くないから言葉を文字通りの意味でしか使わないのである。だから妻が桜を見て「きれいね」と言ったら「ある存在がきれいかどうかは主観的なものであり、あなたの発言は、あなたがこの花をきれいだと思う主観の表明にすぎない。で、俺はそれに対してどう答えればいいのだ。そもそも、他人の主観の表白に対し、いちいち反応する必要があるのだろうか」と考え、結局無視してしまって、妻との間に隙間風が吹いたりするわけだ。
いや、これはもちろん戯画的に書いたのだが、男性の多くはコミュニケーションにおいて怠け者であるというのは事実だろう。会社などでも、そういう「感情のコミュニケーション」を積極的にしているのはだいたい女性である。これは男性にモテたいとかいうよりも、女性とはそういう「優しい存在」なのだ、というのが、私が長年生きてきてやっと理解したことの一つだ。女性がいるだけで、組織がなごやかなものになるのである。(言うまでもないが、これは女性の年齢や美醜とは無関係なことだ。男は実用的、女性は装飾的、と言うと差別的になるが、男は野蛮、女性は文化的とも言える。)
では、それは「女性的コミュニケーション」「女性的言語使用法」なのかと言うと、実は「日本的コミュニケーション」、「日本的言語使用法」は本来そうであったのではないか、と思う。その見事な例は小津安二郎の映画、たとえば『東京物語』における(特に老夫婦の)会話を見ればいい。
こうした日本的コミュニケーションは、日本の後進性ではなく、むしろ先端性ではないか。これからの世界を精神的に救うのは、過去の日本の精神文化の中にあるのではないか、と言えば、話が大げさすぎるだろうか。西洋社会が「男性原理」であり、闘争と略奪を本質としていることを考えれば、平和と優美さの「女性原理」が重きをなしてきた日本の精神文化が貴重な存在であることは確かだろう。問題は、それを日本自身が知らないことだ。
なお、ここまでくどくどと書いた私の無骨な文章と、下の短く優美な文章を比較すれば、それ自体が、私が言っていることの証明になっているだろう。



(以下引用)



日本人の家族や夫婦はほんとうにコミュニケーションがないと痛感します。

コミュニケーションとは言葉の数ではありません。

言葉の数では対立しか生みません。(アメリカ人のように)

わたしが思うコミュニケーションとは、ウソでも同調する気持ちのことです。

たとえば、妻が桜を見て「きれいね」と言ったときには、夫もそう思わなくても「そうだね」と言うことです。(笑)

なんだ、そんなことかと思わないでください。

それができていないから、いろいろ問題が拗れるのですから。






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