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徽宗皇帝のブログ

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現場の独断専行が組織(軍隊の場合は国家)を破滅させる
「紙屋研究所」記事で、文中で引用されている元の本を読むより、紙屋氏のこのダイジェストを読むほうが、高校生や大学生レベルの人間が「日本はいかにして太平洋戦争の泥沼に入っていったか」を理解するのに最適だと思う。

(以下引用)途中一部略

及川琢英『関東軍——満洲支配への独走と崩壊』


 そうだなあ、高校の教科書程度しか知識のない人間=ぼくが読んだのだが、読みやすいとはなかなか言えない本であった。

(中略)

満洲を統治するシステム全体の気味の悪さ

 まず読んで思ったのは、日本から見た際の満洲を統治する(あるいは満洲に関与する)機構の得体の知れなさ、気味の悪さである。満洲国ができるまでは、日本にとっては正式には植民地でもないし、領土でもない。中国(中華民国)の領土のはずなのに、あまり統治が及んでこない。さらに外国からの目があって、強烈な支配はダメだが、実効的な支配はおよぼしたい。さらに現地には軍閥的な勢力がいる…。


 だから、しっかりした機構の政府があるわけでもなく、民生だけ担当する部門、軍事だけ担当する部門に分かれている。朝鮮や台湾と比べるとこのアモルフさは際立つ。しかも、軍事を担当する関東軍は、陸軍中央の統制に服しているかといえば、「天皇直隷」だから、服しているようで服していない。


 本書の「序章 前史」はそうした関東軍の成立にかかわる気味の悪さを書いている。そして「第1章 関東軍の成立」では、中央と出先機関たる関東軍との間で、統制を困難にしかねない法的な根源として、「区処」と「命令」の扱いの差を解明する。


 加えて、陸軍文化の中で「独断専行」というものがどういう位置付けだったのかを書いている。


命令の実施には独断を要する場合尠(すくな)からず。是(こ)れ兵戦の事たる其(その)変遷測り難きものあればなり。故に受令者は常に発令者の意図を忖度し、対局を明察して状況の変化に応じ、自ら其目的を達し得べき最良の方法を選び、独断専行以て機会に投ぜざるべからず


 これは陸軍の教範である「陣中要務令」(1924年改正)からの抜粋だ。独断専行が明らかにいい意味で使われている(ついでに言えば「忖度」も)。


そこに独断専行を奨励する陸軍の気風が作用していた。(及川p.39)


 今風にいえば、“戦闘は状況が刻々変化するんだから、言われたことだけやるだけじゃダメだ。戦争に負ける。元の意図を汲んで、目の前の状況の変化をよく見て、自分で考えて、「求められた以上のこと」をやっちまえ。それがプロってもんだろ?”というような感じだろうか。


 そりゃあわかる。


 わかるけど、それって小状況についての判断だよね。そもそもこれって、「陣中要務令」っていう教範、つまりマニュアルの話であって、現場中の現場で使うものだし。大きな国家戦略の話じゃない。


 戦略的な判断を、現場が勝手にやっていたらとんでもないことになる。


 だけど、関東軍の歴史はこの独断専行の歴史なんだよね。しっかりした統治機構もなく、出先機関を完全にコントロールできないような制度上の欠陥もあり、さらに独断専行を奨励する軍部の気風もあったら、これはヤバい。火薬庫みたいなもんだろう。


 

石原莞爾を軸に本書を読む

 だけど、一般的に独断専行を良風とする文化があるだけではまだ実際に駆動はすまい。


 実際に、中央や政府に逆らうという「下克上」的な文化が公然と花開いたという点がキモではないかと本書は見ている…とぼくが感じた(そのように本書で断定されているわけではない)。


 それを花開かせたのは、石原莞爾である…と本書を読んでぼくが思った。


 石原の才気走った見通し。思い上がり。そして中央のキャリアになって、逆に関東軍の現場の独断専行ぶりに苦労し、ゆえに軍官僚としてのキャリアを中断させてしまう人生の皮肉。そのあたりは不勉強であったので、本書で知った次第である。


 本書は3つの角度から関東軍を描いているのだが、その中の第二の視角として「関東軍軍人の個人的特性」を明らかにすることに重点をおいている。したがって、さまざまな人物が描かれる中で、及川の筆は石原に関しては何らかの思い入れがあるかのように饒舌である。


 まず、柳条湖事件満洲事変のきっかけとなった鉄道爆破事件)を受けて、戦争の不拡大、せいぜい地方政権樹立程度にとどめておきたかった政府や陸軍中央の思惑に対して、もともと「満洲の日本領有」という方針であった石原が、それを修正し「満洲国独立」にターゲットをしぼり、関東軍全体がその方向で困難を乗り越えて実現させてしまう。


小林道彦の研究(『政党内閣の崩壊と満州事変』)は、〔…〕関東軍がたびたび行き詰まりながらも、手を変え品を変え、さらには運も味方につけて状況を打開し、独立国家樹立を実現させていった経緯を明らかにしている。(及川p.140)


 その様子を、本書は石原の下克上ぶりを軸に描き出すのだ。


畑英太郎〔関東軍司令官〕の弟畑俊六(当時参謀本部第一部長)は、板垣〔征四郎、高級参謀〕は謀略家の石原に踊らされ、参謀長の三宅〔光治〕は、主義も方針もない「石原一派のロボット」であったとし、下克上の傾向が盛んななかで、兄は統率に一方ならぬ苦心を要しただろうと回想している。石原といえども、一人では関東軍を動かすことはできない。謀略に関係する諜報業務は、高級参謀の担当であり、軍首脳に影響力を及ぼすためにも石原にとって板垣との連携は欠かせないものであった。(及川p.121)



石原は完全に図に乗っていた。(及川p.138)



石原のねらいは、〔張作霖の子・張学良が実権を握る〕錦州政権に〔石原の独断による錦州爆撃で〕打撃を与えるとともに、国際的に不拡大方針を表明していた若槻内閣の顔をつぶし、また陸軍中央首脳に〔戦争不拡大方針と訣別し、満蒙を独立国家にするよう〕覚悟を決めさせることであった。(及川p.139)



視察後、白川〔義則、元関東軍司令官〕は、関東軍の下克上の雰囲気に対して憂慮を深めた。会談では石原の失礼な態度に今村〔均〕が立腹して退席するという一場面もあった。(及川p.141)


 なお、幕僚附出会った片倉衷が、石原・板垣の謀略にうすうす気づきながらも、自分との「切り離し」を行なって、自分の任務に没頭するという官僚主義を発揮していく様子が興味深い。


片倉らは、自分たちは謀略には関係なく、関東軍が組織として謀略を実行したわけでもないと考えることによって、満鉄爆破事件を所与のものとし、作戦計画の遂行という職務に注力していった。(及川p.132)


 片倉は天皇から謀略なのかをただされたが、「本職並びに関東軍としては謀略をいたしておりません」というロジックを使っている。


 前の記事で加藤聖文が満洲支配における総合的な無責任の発生について次のように述べている箇所を紹介したが、日本的組織のありようそのもののである。


「私がやっているのはこの部分しかやっていませんから」「これはあの人の担当だ」と責任のなすりつけ合いになり、誰が責任者なのかわからないことになっていき、最後は誰もストップボタンを押す人が出てこなくなる。日本の場合、政策の柔軟性がもともとないので、一つの目標を目指す時は、ある部分強みを発揮するのですが、それが「ちょっとおかしいぞ」といったときに、軌道修正ができなくなる。…大きな話になっていくほどますます誰も部分的にしか関与しなくなり、挙げ句の果てに破綻するまでいってしまったのです。破綻してしまったあとも最初の人たちは「あなたが言ったからだ」と批判されても、「いや、私は最初はこういう意図だった。自分の意図とは違う方向に行ったのだ」「途中からこれはまずいと思ったのだが、言うことを聞いてもらえなかった」と責任のなすりつけ合いになる傾向が強い。日本の戦争そのものが、誰が何の目的で始めたのか曖昧になって、誰もが当事者意識がない、むしろ被害者意識を抱いています。みんな不本意な被害者意識で、責任の所在が曖昧になってしまっています。(加藤聖文「日本にとって満洲支配とは何だったのか」/「前衛」2021年10月号p.172)


 小林道彦の研究が紹介されたように、満洲事変は、石原そして関東軍の意図が、どのように貫こうとされ、しかし執拗にそれを挫折させる要素が飛び込んできて、くじけそうになるが、しかしやはり貫徹されてしまうのかを、本書では要領よく示している。


 他方で、石原が広げた下克上文化がどのように石原自身をやがて苦しめることになるかという記述も実に興味深い。


参謀副長を務めた今村均は、満洲事変後の石原の栄転は出先の参謀らに対して、「中央の統制にそむいても功さえたてれば、やがておのれらたちが統制者の地位に立ち得る」という前例を示すこととなり、高級者の一部にも「文句を言わず下の者の作った案を、そのまま実行に移すほうが、評判をわるくしない」と思わせるようになったと回想している(「満洲火を噴く頃」)。(及川p.196)



石原を見習った関東軍の後輩軍人は、中央が想定する程度や範囲以上に華北内モンゴル工作を進め、板垣や今村もそれに追従していった。その結果、日本軍は日中戦争の深みにはまることとなり、石原の発言力も徐々に減退して計画に狂いが生じていくのである。(及川p.196-197)


 石原は陸軍中央へ栄転し、しかし今度は関東軍の暴走を抑えようとする側に回るのだが、全く制御が効かなくなるのである。


極端から極端に振れるのが石原の特徴である。(及川p.156)



内モンゴル分離工作という関東軍の方針に対し〕片倉や石原ら陸軍中央は、関東軍を抑えようとしたのである。(及川p.207)



〔1936年〕一一月には関東軍を止めるため石原が新京に赴いたが、武藤〔章第二課長〕に「あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行している」(『今村均回顧録』)と言われて、参謀たちに笑われ、言い返すことができなかった。(及川p.210)



求心力を失った石原第一部長は、〔1937年〕九月二八日に関東軍参謀副長への異動を命じられた〔…〕。〔政府方針に逆らって華北を分離しようとする関東軍に対し〕石原と同じく不拡大派の多田参謀次長は、石原を関東軍に送り込むことでその統制を期待したとみられる。石原は離任にあたり、第一部の参謀に対して事変の即時中止および対ソ軍備増強を訓示し、満洲事変は決して関東軍の謀略によるものではないと明言して、幕僚の軽率な発言に釘を刺したというが、時すでに遅しであった。石原は自らが進めた下克上の風潮によってツケを払わされ、参謀本部の要職から追い出されることとなったのである。(及川p.223)


 他にもいっぱいあるのだが、それは本書を読んでもらうことにして、ここではこのくらいにしておこう。


 

「下の言いなり」にならない民主的なイニシアチブ

 「終章 帝国日本と関東軍」では、関東軍という組織の独走が起きるしくみを簡単に考察しつつ、司令官のキャラクターにも言及している。


 “現場のやり方に任せて、責任者は寡黙にそれを認め、何かあったら責任をとる”的なところが日本的美風として賞賛されるが、それと対比される司令官として梅津美治郎が語られている。現場の声に「負けない」司令官としての梅津を及川が語る中で、


参謀に言い負かされない(及川p.284)


と書いているのは注目を引いた。


 ボトムアップは大事なことだが、司令官は、専門家官僚や現場のたたきあげをコントロールする力がなければ、ただの「下の言いなり」になってしまう。


 抑圧や恐怖によるトップダウンがいいわけでもないし、戦略や定見のないボトムアップ一辺倒でもダメ。


 そこに民主的なイニシアチブが発揮される必要がある。それは道理と納得をもって動かせるというトップの力だろう。


 梅津の話は戦略的な判断がどう貫徹されるかという点でポイントだと思った。


 


 歯ごたえはある本だが、手元において時々に参照したりする上では役に立つし、読み物としては、何か一つ「軸」(ぼくの場合は石原莞爾)を決めて読むと面白く読めるのではなかろうか。


 

(以下略)

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