「混沌堂主人雑記」所載の蚊居肢からの引用文の一部を転載する。
まあ、小林秀雄の言っている(書いている)ことはとうの昔に「シオン長老の議定書」に書かれたのと同じようなものだが、これこそまさに「現実世界の現実政治の実態」だろう。これは今でもガザ大虐殺という形で目の前に起こっている「現実政治」なのである。そしてウクライナ戦争でも西側諸国は同じことをやっている。日本の国内政治も同様であることは能登の姿を見れば明白だ。
現実世界と現実政治では真実には一文の価値も認められていない。
先に、「マスコミに載らない海外記事」所載の「ガザにとまどいて」の一節を、下の引用記事の一例として赤字(一部太字)にして載せておく。
イランやヒズボラやフーシ派に対し、我々は独自の批判を持っているかもしれないが、彼らがパレスチナ人と共に戦い、命を落としているのは事実で、良くも悪くもその事実は彼らから奪えない。
湾岸諸国の独裁者連中や、彼らが資金提供するトルコのような国には、そのような自由裁量の余地は与えることはできない。連中の狙いは、自分たちの富と権力の蓄積というより、広範なゲームの一部としてガザを利用することで、パレスチナ人などどうでも良いのだ。これはヨルダンなどの国々、特にカタールの対応に見られる。カタールは誠実な仲介者として振る舞っているが、アメリカとイギリスの巨大空軍基地と海軍基地があり、イスラム聖戦主義のカタールや同盟諸国が資金提供するこれら基地は一度も攻撃されていない。
(以下引用)
まあ、小林秀雄の言っている(書いている)ことはとうの昔に「シオン長老の議定書」に書かれたのと同じようなものだが、これこそまさに「現実世界の現実政治の実態」だろう。これは今でもガザ大虐殺という形で目の前に起こっている「現実政治」なのである。そしてウクライナ戦争でも西側諸国は同じことをやっている。日本の国内政治も同様であることは能登の姿を見れば明白だ。
現実世界と現実政治では真実には一文の価値も認められていない。
先に、「マスコミに載らない海外記事」所載の「ガザにとまどいて」の一節を、下の引用記事の一例として赤字(一部太字)にして載せておく。
イランやヒズボラやフーシ派に対し、我々は独自の批判を持っているかもしれないが、彼らがパレスチナ人と共に戦い、命を落としているのは事実で、良くも悪くもその事実は彼らから奪えない。
湾岸諸国の独裁者連中や、彼らが資金提供するトルコのような国には、そのような自由裁量の余地は与えることはできない。連中の狙いは、自分たちの富と権力の蓄積というより、広範なゲームの一部としてガザを利用することで、パレスチナ人などどうでも良いのだ。これはヨルダンなどの国々、特にカタールの対応に見られる。カタールは誠実な仲介者として振る舞っているが、アメリカとイギリスの巨大空軍基地と海軍基地があり、イスラム聖戦主義のカタールや同盟諸国が資金提供するこれら基地は一度も攻撃されていない。
(以下引用)
嘘といえば、ウクライナ紛争後、とくにブチャ事件をめぐる西側メディアや国際政治学者などによる大嘘の跳梁跋扈以後、何度も掲げている小林秀雄の名文がある。再掲しとこう。
……ヒットラーにとっては、世界観は大衆支配の有力な一手段であり、もっとはっきり言えば、高級化された一種の暴力なのである。暴力を世界観という形に高級化する事を怠ると、暴力は防禦力ばかりで、攻撃力を失う、と彼は明言している。 もっとはっきり、彼は世界観を美辞と言わずに大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。そして、彼はこう附言している 。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。 嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。
ヒットラーの心理学に、何もあきれる事はないのだ。現代の無意識心理学も似たような事をやっていないと誰に言えるだろう。大事な点は、ヒットラーが、無意識界の合理的解釈などを自慢している思い上った心理学者ではなかったところにある。「マイン・カンプ」に散在するこれらの言葉のうちで、著者によって強行され、大衆のうちに実証されなかった言葉は一つもない。「マイン・カンプ」が出版された時、教養ある人々は、そこに怪しげな逆説を読んだに過ぎなかった。暴力団の団長に、常軌を逸した風来坊の姿を見て、これを侮蔑した。が、相手の、比較を絶した、大きな侮蔑の力を計る事は出来なかった。ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。
〔・・・〕
専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた。彼はプロパガンダを、単に政治の一手段と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている。あの数々の残虐が信じ難い光景なら、これを積極的に是認した人間の心性の構造が、信じ難いのは当り前の事だと考えている。彼は、死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。だが、これは、人間は獣物だという彼の人性原理からの当然な帰結ではあるまいか。 人間は獣物だぐらいの意見なら、誰でも持っているが、彼は実行を離れた単なる意見など抱いていたのではない。……
(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年)
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