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皇室の望ましい役割

「逝きし世の面影」記事の一部を転載。
三笠宮(「殿下」を付けるべきか、と迷ったが、「宮」自体が敬称に当たると思うので、付けないことにする。)が、これほどの「反戦平和主義者」であり、先の戦争についてこれほど赤裸々な発言をしていたことは初めて知った。いや、前からその発言に触れていたのだろうが、私の注意を牽かなかったのだろう。「心ここにあらざれば、見れども見ず」である。
昔の私は、政治にも歴史にもほとんど何の興味も無かった。せいぜいが、「織田信長カッケー」くらいで、まあそれが若者の平均的な歴史意識ではないか。戦争についても、「まあ、戦死者や被災者は可哀想だけど、俺が生まれる前の話だし、日本の戦争責任なんて、俺とは関係ないもんね」くらいの考えだった。今でも、自分のような戦後生まれの人間が「日本の戦争責任」に関係があると言われれば「そりゃ無茶な話だ」と思う。韓国や中国が日本の戦争責任をやいのやいの言うのは、「反韓・反中」の若者を増殖させるだけだろう。だからと言って、日本の戦争責任が、時間が経てば消えるという話でもない。要するに、「国としての罪」に時効など無いのだ。悪事をやったという事実は永遠に残る。それが歴史というものである。
その歴史を改竄しよう、というのが「日本会議」や「新しい歴史教科書を作る会」や政財官界の右翼(?)層であるわけだ。こうした恥知らずな行為が日本に新しい汚名を着せることになるのだ。

言うまでもなく、上の文中で「政財官界の右翼(?)層」と書いたのは、彼らには本物の愛国心も日本の伝統を尊重する気持ちもまったく無く、あるのは私利私欲だけだからである。彼らが尊重する「日本の伝統」は、自分たちにとって都合の良いものだけで、その私利私欲に反するならば、日本文化の伝統の中枢である皇室さえも平然と排除しようとする連中である。もっとも、その皇室が、神道の中心的存在でありながら、

『二人のプリンスと中国共産党』で、昭和天皇夫妻は「キリスト教の“秘密の洗礼”を受けた」と、タブーを明かした。戦前から聖書の講義を定期的に宮中で受けていたと『昭和天皇実録』に記述されており、キリスト教界の内部証言等で裏付けた

というのが面白い。皇室は日本神道と強固に結びついているわけでもないようだ。別の見方をすれば、日本の神道というのはもともと「皇室の権力維持のための装置・デコレーション」であったということを皇室自体が明確に認識していた、ということではないか。「古事記」は、皇室の祖が神であったということを知らしめるためのプロパガンダ文書という側面があったはずである。
だからと言って、皇室の存在意義が無くなるということにはならない、というのが私の考えだ。
皇室は日本文化の柱だ。それを無くせば日本は日本ではなくなるだろう。私はそうなってほしくない。つまり、すべてが平準化されるグローバリズムの中で、日本は日本というローカルのままであってこそ、その価値が高まる、と私は思っている。皇室はそのシンボルである。
政治的には、皇室は「日本というやじろべえの重心」みたいなものだ、と私は思っている。日本が右に傾くと左に戻し、左に傾くと右に戻して、日本を安泰にしていく役目である。逆に、それが先頭切って進もうとする(先の大戦など)と、たいてい誤ることになる。
今の右傾化した日本政治の局面で、皇室の方々が揃って「反戦平和」の言葉を口にしているのが「皇室重心論」の良い証拠である。


(以下引用)






(資料)『南京大虐殺に怒った三笠宮崇仁』2015/12/9(水) 河信基の深読み

今月2日に百歳になった三笠宮が陸軍少佐とした赴任した南京で見聞した日本軍の数々の残虐行為に驚愕し、南京大虐殺に怒った事は意外と知られていない。
その事実は兄の昭和天皇にも知らされており、兄弟共に暴走する日本軍への不信感を募らせていたことがうかがわれる。

南京大虐殺を否定する歴史修正主義者には写真がどうのと重箱の隅をつつくような些末な議論に流れ、旧日本軍を庇う傾向が認められるが、精神の貧困と言わねばならない。
『二人のプリンスと中国共産党』で、軍部に操られた昭和天皇は実は反戦主義者であり、海外侵略にのめり込む軍部に不満を強め、ポツダム宣言を受け入れる「聖断」に繋がったと書いたが、三笠宮の証言からも改めて裏付けられた。

三笠宮は結婚70周年の2011年10月に発表した感想で「結婚の時、私は陸軍大学の学生だった。間もなく戦争となり、支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。帰国後、大本営参謀などを務めているうちに、敗戦となった。空襲で屋敷が全焼し、経済的な労苦は大きかった」と回想している。戦後は東大でオリエント史を学び、学者の道に進んだ。生物学の研究に打ち込んだ兄の昭和天皇と似た経歴である。
問題の南京赴任時代について自著『帝国と墓と民衆』(1956年光文社)に付した「我が思い出の記」で以下のように生々しく触れている。

「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、じつにこの1年間であった。いわば『聖戦』というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とは思いもつかない結果を招いてしまった。
この失敗は軍および日本政府首脳に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたしが南京に赴任していた1年間は、司令官以下この方針の徹底に最大の努力をした。
新政策が発表されるや、軍司令官はただちに『四悪』を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んでいた・・。ところが放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった。正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」

三笠宮はコードネーム若杉参謀として南京に赴任していたが、帰任直前の1944年1月、将校らの前で講話し、軍紀の乱れや残虐行為を厳しく指弾した。
それは1994年に「支那事変に対する日本人としての反省」として公表された。

しかし、三笠宮自身、罪悪感に長く苦しんできた。
「紀元節復活に反対運動を展開してはどうか」(毎日新聞1957年11月13日)と呼び掛け、『紀元節についての私の信念』(文藝春秋1959年1月号)で次のように心情を明かしている。
「昭和15年に紀元二千六百年の祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人として大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨事に陥れないように努めることこそ、生き残った私の責務だと考える」

さらに、「今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」(自叙伝『古代オリエント史と私』1984年学生社)と告白し、南京の実態について赤裸々に明かす。
「ある青年将校ー私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのですーから、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突き刺させるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画を見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国連から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかったと語っていました」

当然、南京大虐殺を否定する一部の歪んだ風潮については批判的であり、「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。人数は関係ありません」(『This is 読売』1994年8月号)と厳に戒めている。
注目すべきは、兄の昭和天皇とそうした認識を共有していたことをうかがわせる次の部分である。
「中国側は日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡で戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だったろうと私は考えております」(同)。

南京大虐殺を否定する保守系メデイアは三笠宮を「赤い宮様」などと揶揄し、その発言を封じようとしてきた。
だが、現場を踏んだ証言の信憑性はいささかも揺るぐことがない。

『二人のプリンスと中国共産党』で、昭和天皇夫妻は「キリスト教の“秘密の洗礼”を受けた」と、タブーを明かした。戦前から聖書の講義を定期的に宮中で受けていたと『昭和天皇実録』に記述されており、キリスト教界の内部証言等で裏付けたが、三笠宮と共有していた罪悪感も心理的に作用したと思われる。
昭和天皇の人間宣言は、GHQに強要されたものではなく、自発的、必然的であった。

12月2日に100歳を迎えられた三笠宮崇仁親王殿下



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