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徽宗皇帝のブログ

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社会システムの土台としての倫理
「阿修羅」投稿記事から転載。「ちきゅう座」というホームページの記事である。この引用部分の最後に書かれた「生産力や暴力の制御には知性と倫理が必要だ」という言葉は、これからの日本を考える際に非常に大事な姿勢だと思うからここに転載するのである。
その反対の事例が、村上龍主催の「JMM」に書かれた冷泉彰彦の復興計画で、「理念無き復興」「旧体制の単なる表面だけの衣替え」とでも言うべきものである。それについては、明日にでも掲載したい。


(以下引用)


http://chikyuza.net/n/archives/8186

「復興を!」という前に『ガラクタ』を片づけるべきではないか

2011年 4月 3日 評論・紹介・意見 「ムラ」「原発震災」安東次郎日本の『近代化』

<安東次郎(あんどうじろう):「ちきゅう座」会員>

ポスト3.11―原発震災後の日本―を考える ② 

この数日「この震災からどう復興をしていくか」という議論が始まりつつある。「復興院」だの、「復興構想会議」などという話が聞こえてくる。しかし、ちょっと待ってほしい。

「復興」なんていう前に、日本人は「ガラクタ」を片づけるべきではないか。こう言うと「いや、もう被災地の瓦礫は大分片付けられていますよ」と言われるかもしれない。しかしここで言っているのは、モノの話ではなく人間の話だ。

今回の震災がただの「天災」なら、こんなことは言わない。しかし「原発震災」は、明らかに「人災」だ。

そもそも「原発震災」は、相互に独立しているはずの「組織」―「官僚」、「政治家」(与党も野党も)、「学者」、「電力会社」、「マスコミ」など―が、一つだけでもマトモであれば、防げたはずのものだ。

しかし、権力の側にいるものたちは、これほど天地を穢したのに、いまだに何の反省もないようだ。彼らは、この国をここまで追い詰めても、まだ自分たちが「エリート」であることは揺るがない、と思っているのだろう。

そうでなければ、どうして、いまでもなお高い放射能の中で人々が立ち往生している、などということが起こるだろうか。どうして幼児や妊婦にまで、国際基準より数十倍も緩い基準さえ超えて汚染された水や食べ物が与えられるだろうか。

原発震災は「現在進行形の人災」であり、「社会のシステム」そのものがもたらした「社会的犯罪」だ。

こんな風にいうのは、アジテーションだろうか?そんなことはない。

「欧米、とくにフランスを筆頭とした国々は、日本のことを悲惨な震災に見舞われた被災国というよりも、原子力エネルギーを管理できない核犯罪国家とみなし始めている」。http://diamond.jp/articles/-/11689?page=5

じっさい3月30日付け「ル・モンド」の記事―Philippe Ponsによる―の標題は、「危機は国家と専門家達を失墜させた」というものだ。そしてこの記事は「現在のエリート達にはもう服従しないという意識変革なしでは、日本国民の未来はない」で結ばれているのだ。http://www.francemedianews.com/article-70549283.html

同じくル・モンドの「福島、この批難すべき沈黙」(3月26日)は、「この惨事の吐き気を催させるような背景が今浮かび上がってきたのである。「原子力ロビー」と呼ぶ権力が 」と言う。「省庁、監視機関、原発建設会社と事業社の間での大規模なこの共謀行為は、反対派の口を塞ぐだけでなく原子力に関するすべての疑問を撤去する。・・・怠慢と省略による欺瞞、あるいは純粋なる改竄によって撤去するのである」。

http://www.francemedianews.com/article-70295007.html

まさしく、「吐き気を催させるような原子力ロビー」が支配している日本は、「省庁・監視機関」と「原発建設会社・事業社」とが「大規模な共謀行為」を行う『犯罪国家』だ。

こうした『犯罪国家』はその国民にとって災厄であるだけではない。原発推進をめざす欧米の諸国にとっても、日本の「原子力ロビー」は、もはや迷惑な存在でしかない。

フランスもアメリカも「原発をあのサルたちの勝手にさせるべきではなかった」と愚痴をこぼしながら、日本へアドバイスをした。ところがなんと日本の『エリート』たちはこれを拒否したのだ。「いつまでも海水なんか注入し続けて居やがる。これは脅かすしかない」、これが3月下旬、彼らが下した結論だっただろう。

日本は、かつての戦争当時すでに西欧に匹敵する航空機や艦船を作っていたし、戦後も高速鉄道や自動車をはじめ大量の工業製品を作ってきた。こうした技術は本質的には西欧の模倣だろうが、たとえ模倣であっても、技術の分野では、日本は「西欧化」に成功したわけだ。今回の原発震災も「技術」が本当の問題ではないだろう。

しかし社会システムのほうはどうか?3.11の原発震災で、答えは誰の目にもあきらかになった。

近代の日本の社会システムが最初に破綻したのは、太平洋戦争だったが、今回、日本は同じ過ちを繰り返しているようにみえる。しかもあの時代については、ファシズムの歴史的な必然性を考慮しなければならないだろうが、今回は違う。3.11「原発震災」は、近代日本の『組織の論理』のほとんど純粋な帰結といえる。

近代システムは、それ以前と比べて巨大な社会的な生産力や暴力を動員するが、こうした生産力や暴力の獲得は、技術を導入・獲得すれば可能となる。しかしこうした生産力や暴力の制御には、まったく別の次元の能力が必要だ。

生産力や暴力の制御には、専門性を超えた「知性」や「理性」あるいは「倫理」が、「国家レベル」で必要とされる。これは『精神主義的な話』ではない。問題にしているのは、近代システムが必要とする『装備』としての「知性」や「理性」あるいは「倫理」だ。

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