特に、自由主義から新自由主義への変化(とは書かれていないが、冷戦終了後に起こった資本主義国家内の変化は、そう表現できると私は思う。つまり、社会主義や共産主義は滅んだから、もう労働者に配慮して社会主義的政策を資本主義社会が採る必要は無い、ということで労働者の権利や社会福祉政策がどんどん削除されてきたことが、新自由主義なのである。つまり、資本家の絶対的自由の獲得、資本家の特権の野放図な拡大が、新自由主義だ。)の歴史的考察は、その記憶が残っている人には心から頷けるものだろう。1950年代から60年代(ベトナム戦争前まで)のアメリカの黄金時代を知る者には、今のアメリカの様相が信じ難いはずである。
このアメリカの惨状を作ったものが、資本家による政治支配であることは疑いない。その事への怒りがトランプを大統領に押し上げたのだろう。まあ、そのトランプが資本家の代表的一員である、というのが何とも皮肉だが、フランス革命で先頭に立って貴族社会を打倒したのは、庶民ではなく「人道主義者」の貴族たちだったのだ。庶民は、もともと個々人としての力は持たないから、選挙権以外の権力(「権」は「権」でも「権力」ではなく「(有名無実の)権利」と言うべきかもしれないがww)は無い。暴力装置はすべて政府が握っているのだから。
トランプに対して期待するわけではないが、彼がこれまで言ってきた言葉は、マスコミが大喜びで取り上げた人種差別的発言以外の純粋に政治経済的発言を見れば、合理的なものばかりだと思う。そして、それは、グローバリズム、つまりユダ金的政策への反対の意思表明そのものなのである。
しかし、私もこのブログを十年以上も書いていると思うが、「グローバリズム批判」はその最初のころから一貫していると思う。我ながら、自分の先見性を讃えたい。まあ、誰も褒めないから自画自賛しておくwww
(以下引用)
トランプ大統領を生んだ米国民の怒りとは? 資本主義が「富める者」だけのものになった
世界中を驚愕させたアメリカ大統領選の結果から、私たちは何を読み取ればいいのか。なぜ米国民は、トランプ氏を選ばざるを得なかったのか。
ビル・クリントン政権での労働長官をはじめ3つの政権につかえた経験をもち、「米国の良心」と言われるロバート・ライシュ氏(カリフォルニア大学バークレー校教授)は、米国の中間層には計り知れない「怒り」が渦巻いていると指摘する。選挙前後、テレビ番組にもたびたび出演している氏の見解は、現在の米国を理解するのみならず、先進国に共通する課題への解決策を私たちにもたらしてくれる。
そこで以下では、12月2日に発売予定の『最後の資本主義』(Saving Capitalism: For the Many, Not the Few)より、「はじめに」を一部編集の上、掲載する。
何が失われてしまったのか
読者はご記憶だろうか。学校の教師やパン職人やセールスマン、技能工が自分ひとりの収入で家を買い、車を2台持ち、子育てをしていた時代を。私はよく覚えている。1950年代、父エド・ライシュは近隣の街の目抜き通りに店舗を構えていて、工場で働く男たちの奥さん相手に婦人服を売っていた。父はそれで私たち家族が十分気持ちよく暮らせるだけの稼ぎを得ていた。我が家は裕福ではなかったが、一度たりとも貧しさを感じたことはなく、1950年代から1960年代にかけて我が家の生活水準は確実に上がっていった。あの頃はどの家でもそれが普通だったのだ。
第二次世界大戦から30年ほどかけて、米国ではどの国にも見られないような巨大な中間層が形成され、米国経済の規模が倍増するのと同じように平均的労働者の所得も倍増した。ところが直近の30年を見ると、経済規模が倍増したにもかかわらず、平均的米国人の所得はどうにも動かなかった。
第二次世界大戦後30年に及ぶ高度成長期には、大企業のCEOの所得は平均的労働者の20倍程度であったのが、今や実質的に労働者の200倍を超えている。往時には富裕層の上位1%の所得が米国総所得に占める割合は9~10%であったが、今では2割以上を占有するようになった。
昔は、経済とは、将来への希望を生み出すものだった。きつい勤労は報われ、教育は上昇志向の手段であり、功績の大きいものにはそれにふさわしい報奨が与えられ、経済成長はより多くのより良い仕事を生み出し、現役で働いている間は、ほとんどの人の生活水準が上がり続け、子どもの世代は自分たちよりも暮らし向きが上がり……、そんな具合に世の中のゲームのルールは基本的には公正に機能していたのだ。
ところが今や、そんな夢のような仮定は空々しいばかりだ。経済制度への信用はガタ落ちで、あからさまに恣意的な采配や不公正が横行したために、自由経済の基本理念に寄せる人々の信頼感は損なわれてしまった。多くの人々にとって、経済制度も政治制度もいかさまに映り、最初から富裕層にばかり有利に仕組まれているように見えるのだ。
資本主義は「信用」の弱体化に晒されている
資本主義を脅かしているのは、今や共産主義でも全体主義でもなく、現代社会の成長と安定に不可欠な「信用」の弱体化である。大多数の人たちが、自分や子どもたちに成功への機会が公平に与えられているとは信じなくなったとき、「人々の自発的な協力」という暗黙の社会契約によって成り立つ現代社会は瓦解し始める。そして「協力」の代わりに出てくるのが、コソ泥、不正、詐欺、キックバック、汚職、といった大小様々な破滅だ。経済資源は徐々に、生産するためのものから、すでにあるものを守るためのものへと変質してしまうだろう。
だが、私たちにはこうした状況を変える力がある。ごく少数のためではなく、大多数のために機能する経済を再生させる力だ。カール・マルクスが言うところの、資本主義は容赦なく経済格差や不安定の拡大をもたらすなどということは全くない。資本主義の基本原則は不変の法則ではない。すべて人が決め、人が実行していることなのだから。しかし、何を変えなければならないかを決め、それを実行するためにはまず、何がどうしてこうなったのかを理解しなくてはならない。
この四半世紀、私は自分の著作や講義を通じて、米国など先進国に暮らす普通の人々がしっかりと足場を固めることができないまま、募る経済的ストレスにさらされているのはなぜかということについて解き明かしてきた。単純に言えば、グローバル化と技術革新が多くの人々から競争力を奪ってしまったことが原因だ。我々がやってきた仕事を、今や海外の低賃金労働者やコンピュータ制御の機械が、もっと安価にこなしてしまうからなのだ。
私の解決策は(これを唱えているのはほとんど私だけなのだが)、政府をもっと活動家型にすることであった。つまり富裕層へ増税して、そのカネを優秀な教育機関など人々を前進させるための手段に回したり、貧困層に再分配したりするのである。しかし、こうした私の提言は、政府をもっと小さくしたり税金や給付金をもっと少なくすれば、経済は一人ひとりにとってよりうまく機能するはずだと思い込んでいる人々からは、きっぱりと否定され続けている。
私が唱えてきた対応策は今でも有効ではあるものの、私はしだいに、それだけでは決定的に重要な現象を見落としていると考えるようになった。それは、政治的権力が企業や金融セクターのエリートたちにより集中するようになり、経済を動かすルールにまで影響を与えるようになっていることである。そして私が唱えてきた政府による解決策は(私は今でも使えると思っているが)、ある意味で的外れなものになってしまった。なぜならそこに、経済ルールを規定するという政府の基本的な役割を十分に組み込んでいなかったからだ。しかも悪いことに、そうなると論点が「自由経済の美点」対「活動家型の政府」の是非に陥り、いくつかの重要な論点、たとえば、現在の市場が半世紀前の市場に比べどれだけ異質なものになってしまったか、なぜ50年前にはうまく分配できていた繁栄が、現代の仕組みでは広く共有できなくなるのか、さらには、市場の基本的なルールとはどうあるべきかといった論点から人々の目がそらされてしまったのである。
私はしだいに、そんなふうに目をそらされたのは決して偶然ではないと思うようになった。大企業の重役や彼らを取り巻く弁護士やロビイスト、金融業界やそこに群がる政治家、百万長者、億万長者たちなど、「自由市場」を声高に擁護する者たちは、何年もかけて自分たちを利するようせっせと市場を再構築し、そうしたことが問題にされないことを望んできたのである。
ルールが「富める者」のために作り替えられた
私はこうした問題を、大きく3つの視点から扱う。
第1の視点は、市場がいかに資産をめぐるルール(何が所有可能か)や独占をめぐるルール(市場の力はどの程度まで許容可能か)や契約をめぐるルール(何が取引可能でそれはどのような条件下か)や倒産をめぐるルール(購入者がカネを払えなくなったら何が起こるか)に依存しているか、そしてそれらのルールがどのように執行されているかだ。
こうしたルールは自然に存在しているものではない。いずれも人間があれやこれやと決めていったはずだ。そして大企業や金融業界や富裕層が、過去数十年をかけて、彼らを監督する政治組織に対して影響力を増強させていくにつれ、ルールも変えられていったのである。
それと同時に、1930年代から1970年代後半にかけて、中心的な拮抗勢力として中間層や下位中間層が影響力を行使することを可能にしてきた労働組合や中小企業、小口投資家、地方や中央政治を拠点とする政党といった組織は弱体化してしまった。その結果出現したのが、富める者が持てる富をさらに増幅させることを目的に作り上げた市場だ。市場の内部で、中間層や貧困層から少数の上位層へと向かう、かつてないほど大きな事前配分が起こった。それが市場メカニズムの内側で発生しているため、ほとんど気づかれないまま進行したのである。
第2の視点は、このような所得や富の分配が社会にとってどのような意味を持ってきたかだ。市場において人々がどのような価値を持つかで給与が決まる能力主義の主張は、それ自体がトートロジー(その人に人徳があるから高給がもらえるのだという理屈)を生み、市場がどのように構築され、それが道義的にも経済的にも正当化できる状態かどうかという問いへの答えをはぐらかしている。実際は所得も富も、ゲームのルールを作れるだけの権力を保有している人々の手中に、ますますゆだねられているのである。
大企業のCEOや金融界のトップトレーダーやポートフォリオマネージャーは、インサイダー情報を使って自らの取り分を膨らませつつ、企業収益を増大することができるような市場ルールを推し進め、自分たちの報酬を自分たちで効率よく決めている。一方で、平均的労働者の給与は、先に述べたように政治面でも経済面でも対抗できる影響力を失ったために、ずっと上がらないままだ。ワーキング・プアとノンワーキング・リッチの両方が同時に急増していることも、もはや報酬が努力とは連動していないことを証明している。市場内部で未分配のままの富がトップに集中していくために、市場の外では、税金や給与を通じた貧困層や下位中間層など下部への大規模な再分配が求められることとなったが、こうした要請は、大きな政府か小さな政府かという煽動的な議論に油を注ぐだけであった。
第3の視点は、解決策は大きい政府でも小さい政府でもないことだ。問題は政府の規模ではなく、誰のための政府かということなのだ。改善策は圧倒的多数の人々が市場形成に与える影響力をその手中に取り戻すことだ。そのためには、利益の分け前を得られていない大多数の人々が自らの経済的権益を連合させて新しい拮抗勢力を形成しなければならない。しかし、「自由市場」と政府とを対抗させる現在の左派と右派の対立によって、不必要に、そして意固地なまでにこうした勢力の連合が阻害されている。
また、これも後ほど説明するように、今後の米国における最大の政治的分断は、共和党と民主党の間では起こらないだろう。起こるとしたら、大企業やウォール街の銀行や、政治や経済の仕組みを自分を利するように変えてきた超富裕層と、その結果、自らが苦境に立たされていることに気づいた大多数の人々の間においてであろう。私の結論は、この動きを逆行させることができるとしたら、その唯一の方法は、現在、ゲームのルール作りに対する影響力を失っている圧倒的大多数の人々を、50年前に広範な繁栄へのカギであった拮抗勢力として再集結させるために、組織化し統一することである。
3つの視点はグローバル資本主義の中心地たる米国に焦点を当てているものの、ここに描いた現象は世界各地の資本主義国でますます共通しており、米国で起こったことから学べる教訓は他国にとっても有効であると私は信じている。グローバル企業は、進出国のルールに縛られるとはいえ、巨大なグローバル企業や金融機関は、どこの国であれそのルール形成に影響力を発揮しつつある。自分を利することのない経済や市場のルールに対して無力感を感じている市井の人々がさらに不安感や不満を募らせれば、敵意むき出しの国家主義的な動きや、時には人種差別や移民反対などの市民感情を生み出し、世界の先進各国で政治不安が広がるかもしれない。
資本主義を救え
私たちが置かれている現実を人々に見せないようにしてきた数々の神話を崩していけば、私たちは資本主義を、ほんの一握りの人々だけを利するものではなく、私たちの大多数のために機能するものに変えることができるはずだ。歴史を振り返れば、過去の経験から希望もある。特に米国では、一定の周期で、少数の富裕層が持つ政治力を制限しつつ政治経済のルールを再適合させ、より包摂性の高い社会を作り上げてきた。1830年代には、ジャクソン主義者が市場の仕組みが普通の人々に資するようエリート層の特権を標的にしたし、19世紀終盤から20世紀初頭には、進歩主義者が独占禁止法を制定して巨大な企業合同(トラスト)を解体し、独占を規制する独立委員会を創設し、企業の政治献金を禁じた。また1930年代には労働組合や中小企業、小口投資家たちによる拮抗勢力を拡大させる一方で、ニューディール政策によって、大企業と金融界の政治力を制限した。
問題は経済だけではなく政治でもある。この2つの領域は分離不可能だ。事実、本書で私が描いてきた領域は従来「政治経済(ポリティカル・エコノミー)」と呼ばれ、社会の法則や政治制度が、どのように道義的な理念、つまり所得と富の公正な分配という中心課題に影響するかを研究してきた。第二次世界大戦後は、ケインズ主義経済の強い影響を受け、研究の焦点は分配問題から、景気を安定させ貧者を救済する手段としての政府税制や所得移転の問題へとシフトしていった。長年にわたりこのやり方は奏功し、高度経済成長が広範な繁栄を生み出し、それによって活発な中間層が出現した。拮抗勢力はその使命をきちんと果たしており、人々は政治経済のあり方を気にかけたり、社会の上層にある過剰な政治力や経済力を懸念したりする必要はなかった。だが今はどうか。人々は大いに懸念している。
ある意味で、本書は伝統的な問いと長年にわたる懸念を思い起こさせるだろう。そして本書が持つ楽観主義もまさにその長年の歴史の中に見出すことができよう。これまでにも幾度となく私たちは行き過ぎた資本主義を救ってきた。だから今度も私たちなら資本主義を救えると確信している。
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