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徽宗皇帝のブログ

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英語重視で教育内容は劣化
「dot」というサイトから転載。
私自身は英語は好きだと思う。というより、中学から高校まで6年間習って、受験勉強でも英語を中心にせざるをえなかったので、英文の大意くらいは読み取る能力はあるかなあ、と思っている。そして、英語という言語は、各専門分野の必要単語さえ覚えれば、専門的な文献でも読むのにはあまり不自由はしないのではないか、と想像している。(会話はまた別。あれは一種の運動神経、反射神経で行うものであり、日本語での日常会話もロクにできない私が英会話をするのはまったく不可能である。)
英文では医学書や法学や科学の文献よりも文学書の方が、言葉は理解できても意味は分からない、ということが多いのではないか。医学や法学や科学の文献は、英文自体はできるだけ読者が理解しやすいような文章で書いてある、という気がする。(これはただの想像だ。私はそんな専門書などほとんど読んだことは無いが、多少専門書っぽい書物を瞥見しただけでも、専門語が入っていることを除けば、文章自体は平易に書かれていた記憶がある。むしろ、かつてのドイツ哲学の翻訳書のように、翻訳されることでかえって難解になった例が多いのではないか。)
というわけで、学生が英語を学ぶのは大いに結構だ、と思うのだが、英語を学ぶのは、会話なら互いの考えを伝達するため、文章ならば、できるだけ正確に読み取り、あるいは書くためであり、要するに「中身」が大事だというのは当然だ。ところが、今の大学が血道を上げている英語教育は「通弁」英語のスキルを学生に身につけさせるだけのものであり、「通弁」英語のスキル獲得で学生は手一杯であり、「中身」を考え、練り上げる余地が無い、というのが実情だろう。
要するに、これは、「大学教育の受験教育化」という劣化ではないか。しかも、その「大学における受験教育」のスキルが、実社会では使い物にならないレベルにしか育たない、というのが下記記事の伝えるところである。
まあ、私は、教育の基本は自己教育であり、自学自習だ、という思想の持ち主であり、大学教育が必要なのはわずかな分野に限られる、と思っているから、大学の「グローバル社会」への対応での右往左往は冷笑して見ているだけであるのだが。




(以下引用)




  

大学の英語授業で「日本人の学問水準が後退」?


(更新 2014/2/26 07:00)

 大学が競うように英語教育に力を入れている。国や自民党の方針も受けて、英語能力テストを活用し、外国人教師を増やし、英語のみで行う授業も導入を進めている。ただし、英語一辺倒への批判の声も出ている。

 週刊朝日では全国160の国公立・私立大学に、アンケートを実施。アンケートでは、TOEFLやTOEICなどの英語能力テストについてどんな支援を行っているのか尋ねた。すると資格試験を学ぶ講座があったり、受検料を一部または全額負担する大学など、TOEFLやTOEICのための支援をしている大学が半数近くに達した。

 もっとも、こうした英語一辺倒の教育には、批判的な声も出てきている。大学の英語教育に詳しい、慶応大学の大津由紀雄名誉教授はこう話す。

「多くの大学は、英語能力テストのスコアをあげる目的で授業をしている。点数をあげるためのテクニックを養うことばかりに注力してしまい、本来の英語の基礎力がついていない学生が増えています。本来、大学で行う英語教育の目的は、専門分野の論文を読み、外国人と議論するための英語力を育成することでしょう。その目的から離れています」

 大学が英語能力テストの「予備校」に成り果ててしまっているというのだ。

「英語能力テストで高得点をとった学生でも、自分の意見を述べ、他人の意見について批評する能力がない学生がいます。これでは、真の英語力を身につけたとはいえません」(大津氏)

 大学英語教育の第一人者、和歌山大学の江利川春雄教授も強い懸念を示す。

「政府は大学の授業を英語で行うように促していますが、これは危険な発想だと思います。そもそも、明治時代の中期に、明治政府は大学教育を英語から日本語で行うように変えました。海外の最先端技術や思想を日本語に置き換えて、深く考えることができたことが、近代化を支えてきたのです。外国語に頼った明治初期のような教育に戻せば、日本人の学問水準が後退します」

 江利川氏によると、英語を使った授業が増えれば、学生は英語を理解することに頭を使って、本来、学ぶべき一般科目や専門科目の内容を深く考えることができなくなるという。

週刊朝日 2014年3月7日号



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